東京博物館(トーハク)では、特別展『本阿弥光悦の大宇宙』が催されています。その主人公の本阿弥光悦や、その友である俵屋宗達などと親しかったのが、烏丸光広(からすま みつひろ)さん。江戸初期のお公家さんです。
昨年(2023年)の夏には、この烏丸光広さんが和歌をしたためた、俵屋宗達の《関屋図屏風》がトーハクに展示されていました。美に対して敏感だっただろう本阿弥光悦さんや俵屋宗達さんと交友し、宗達さんの屏風に、仕上げの和歌をしるしたのですから、その書についても評価が高かったのでしょう。
そんな烏丸光広さんは、後水尾天皇→上皇からの信頼が篤く、江戸幕府との渉外担当を担っていたそうです。そのため、何度も京と江戸とを往復……その何度目かの時に記したのが、現在トーハクに展示されている《東行記》でした。
単なる日記かと思いきや《東行記》には、草稿……下書きが存在しています。その草稿は京都国立博物館に所蔵されてしまっているため、ネット上では、なにが記されているのかさっぱり分かりません……。ただ、草稿があるということは、単に私文書として書いていったわけではなく、公開前提で記していったことがわかります。
そんな《東行記》を詳細に見ていきたいと思います。
以下、わたしが撮ってきた画像だけでは、何が記されているのかさっぱり分からないため、東京国立博物館のアーカイブから画像を借りてきています。
■本阿弥光悦の書法を取り込んだ能書家
解説パネルでは、まず「近世初期の公家・烏丸光広は、細川幽斎に歌道を学び古今伝授を受けた歌人です」としています。もともと歌の得意な烏丸家の人なので、ここは当然なのでしょう。《東行記》にも、古人の歌を思いながら旅して、記録を綴っていったことがうかがえます。
そして歌だけでなく「本阿弥光悦の書法を取込み、速筆で奔放自在な書風を築いた能書でした」とも記していますが……これは「奔放自在な書風」という点には納得ですが……能書なのかについては、わたしには分かりませんでした。「どの辺が本阿弥光悦なの?」なんてふうにも思いましたが、そんな理由で、トーハクで特別展『本阿弥光悦の大宇宙』が開催中の今だからこそ、展示されているのでしょう。
そして烏丸光広は「生涯に何度か京から江戸に旅をしました」……というのは観光ではなく出張ですね。その東海道中で詠んだ和歌を「名所や景色の叙述をはさんで揮毫した」のが《東行記》です。
■京を出て東へ行った記録です
以下は《東行記》の「トーハクの画像」、そこに記してある文字の釈文、そして何となくの現代語訳、という順番で載せています。現在トーハクで観られるのは、その後半部になります。
都を出てあふ坂の関にいたり瀬田の長橋うちわたりてよめる
しるしらぬ会とひかはす旅人の行とくるとにあふ坂の関
あふみる瀬田の長橋なかゝれとおもふ(ひ)そめたる君が代のとき
なを行程に草津いしへの里土山をすきて鈴鹿山を行に伊勢の海ちかくちかく見えわたり八十瀬の浪に猶袖しほり旅衣のはるゝゝ行かたは関の地蔵とかや四日市といふ所をなん打過て
聲しきる八十瀬の浪はきゝいつるすゝかの山の雪そありける
いせの国桒名にとゝまり渡海七里夜をこめことさはかしく各舟にとりのり行程にたく火のかけほのかに浪のうへに見え侍りみな人それはほし崎とやらんいふをきゝて
影もたゝ幽に見て浪の上にたく火はよるのほし崎の山
夜明もて行ほとに北のかたになこやの城も見え侍りそれより尾張のあつたのみやにつきしかは神のゐかきの跡とめて見え侍しにある人櫻花ちりなんのちのかたえには松にかゝれる藤をたのまむといへるは此神の詠吟なりとかたりあへる
咲花にあけのゐかきをこえぬとも見まくほしさは神もいさめし
ひるの程しはし宮にやすらひて道はる/\行すきけるを煙しき寺ありけるをとひ侍けるにこれはかさ寺といへりけれはたちより見侍りて
咲花にあけのゐかきをこえぬとも見まくほしさは神もいさめし
ひるの程しはし宮にやすらひて道はる/\行すきけるを煙しき寺ありけるをとひ侍けるにこれはかさ寺といへりけれはたちより見侍りて
行人もきて見よかしとかさてらに雨のふる日をたよりにそまつ
とよみてなるみ野を行になきさにあまる田靏のこゑを聞侍りて
風吹は音になるみの……(次の画像へ)
風吹は音になるみの浪間より明るなきさにたつそなくなる
猶ゆき/\て三河の国にうつり八はしを見侍るへきとてたつね行にそのあとしもなしそこの里人にとひ侍りけるにもいつこをそれといふへきしるしともなく田のかしこにありて桧木の柱ともなきものなとをこれなん八橋なりといひけれは
とはれてもなにを三河の八橋とことふる事をかきつはたかな
とはれてもなにを三河の八橋とことふる事をかきつはたかな
八橋を見給ひてふりちりうの里へはるかに出給ふにいとまつしけにいゑ居と
わつかにやとり給ふへき所もおほへさりけれともわりなく一夜をとゝまりちりうといふ名をたいにて
秋過て春にもなれはこのさとに米いちりうももたぬ民哉
明行道すから罡崎の城をすき大ひら川を打わたり吉田に一夜とゝまりて
明行道すから罡崎の城をすき大ひら川を打わたり吉田に一夜とゝまりて濱なのはしも近くなるしほ見坂を越行けれは南海まん/\と見えわたりけるに
あしひきの山路越てしほみ坂南の海のいかてもしられす
浪のうつまさこの数をひろひつゝはまなの橋とたれかいひけん
猶ゆく程にしらすかと云所を過侍りて浪もあらひの濱より舩に(……次の画像へ)
猶ゆく程にしらすかと云所を過侍りて浪もあらひの濱より舩に乗まひ坂と云所にあかり濱枩風の音きく里に一夜をあかしかけ川の城を過新坂の麓のやとり各駒の足やすめやすらひけるに所の名物なりとて蕨をしたゝめたる物なと出しけるに新坂をしゆやうさんと云へきにやわらひを朝暮もちひぬる里人はくいしゆくせひにや成侍るらんなとたはむれける
新坂をこえんと足をやすめをく宿にわらひわらひのもちつきの駒
とたはむれつゝ小夜中山を越行に西行法師の命なりけりとよみしもこゝにやと昔をしのふもよほされて
いにしへをおもひそ出る年たけてこえし道ある小夜の中山
と讀嶋田を過行大井川を打わたりぬるに都におなし名さへ聴まほしくおほえ侍る
いとはしな浪かけぬとも大井川同じ名におふ都なりせは
と打詠めて行日数程へて藤枝につきしかは一夜をとゝまり明て行程にうつの山にいたりぬるにつたのほそ道越し昔の人の現も夢に成ぬるよとおもひ侍りて
こえしその人をむかしのうつの山うつゝも夢になりて過けん
するかの苻中にちかつきしかはしはしとゝまり給ひそれよりゑ尻と云所を過行給ひて三保松原清見寺にいたり給て見給ふにうしろの山そひへて諸木えたをましへ岩尾の瀧をち池ふりて庭前の櫻
諸木えたをましへ岩尾の瀧をち池ふりて庭前の櫻花色香ことなり浦のけしきはしつかにして入海の浪こまやかにかすむあなたは三保の枩原ゆふ日のかけうしほにうつろひ沖行舟かすかにそれかあらぬかとうたかはるゝに帰る鳫の聲するをりしも三日月のかけかたふき鐘の響も長閑なるよそほひまことに心もことはもおよひかたき春の夜の一時をおしみしをけに此おりにやとめて給ひこのまゝ酒すゝめ興し
清見かた関守人はなけれとも浦のなかめにたひとまりけり
清見かた関守人はなけれとも浦のなかめにたひとまりけり
西になる日は入海をへたてつゝかすむひまよりみほの松原
清見寺の鐘も暁ちかくつきわたるおりしもたち出行ほとに冨士の根も雲よりうへはいさしらすみえぬるほとにいとたかふしてみる/\行は時しらぬ雪のはたへしろたへにかすみのころもたなひきかゝるあしたか山を見やりかむ原とやらんをはる/\と舩よはふ冨士のすそ野を日も暮かたに打わたり夜半にや行かむよみしうき嶋かはらを行過侍り
冨士の根の雪こそ……
冨士の根の雪こそ時はしらすともかすむそ春の明ほのゝ空
見わたせはふしのすそ野を行雲のあしたか山の嶺にかゝれり
するかなるふしの高ねの音にそへて何うきことのうき嶋か原
伊豆の三嶋にいたり神殿を拝したてまつり其日はとゝまり夜もやう/\明る箱根山を越行にあしたか(の)のけしきいとしつかなりしかともさすか深山なれは風はたさむく春のうす雲ちりくるも木すゑの花かともうたかはるゝにめてつゝ行に四方の山かきくもりかせいと物さはかしく成もて行ほとに雪しきりにふりつゝ駒のあしなみ行かたもおちつかま(な)く打つれ行人もひとり/\になり箱根の里まてまとひきつゝ日もまた暮やらぬも雪を山路の関の戸さしとさゝへふれしかは其日ははこねの里にとゝまりて
行人もひとり/\になり箱根の里まてまとひきつゝ日もまた暮やらぬも雪を山路の関の戸さしとさゝへふれしかは其日ははこねの里にとゝまりてたく火のもとによりけふのうさなとかたりあへる
箱根山はるともいさやしら雪のみちふりかくし行かたそなき
さてそれよりさかみの国菊川の宿をなん見侍りける
むかしよりかはらてこゝにすむ水のをときく川の末はたゝせし
それより小磯大磯藤沢とつかほとかやかたひらの宿よりかな川とやらんに打過手をゝりてかそふれは三月十一日に江戸へなんつき侍りぬる
江戸に到着した3月11日で《東行記》は終わります。もっと詳細に旅の様子を記してよ! とも思いましたが、歌紀行文の内容は、このくらいの内容の密度で十分だったのかもしれませんね。それにしても、烏丸光広さんの文字は、奔放でしたね。地名の漢字については、なんとなぁく読めましたけれど、そのほかは、ほとんど読めませんでした。まぁでも何が書いてあるかのモヤモヤは払拭できて良かったです。
それではまた