【合戦図】あの名場面もじっくりと観られる! 《平家物語 一の谷・屋島合戦図屏風》
また懲りもせず、このあいだの土曜日の昼前後に、混んでいるだろう東京国立博物館へ行ってきました。
人の多い本館の中を、何を見るともなく、誰からも観られていない物を探して、フラフラと歩いていました。人混みを避けて出入り口にショートカットしようと、いつも空いている本館1階の「特3室」へ入っていくと、やっぱり空いていました。
そこで展示されていたのは、大英博物館に収蔵されている《平家物語 一の谷・屋島合戦図屏風》……の複製品でした。複製品の良さは、これまでのnoteで何度か言及しましたが、やはり今回も素晴らしかったです。キヤノンさん、良い仕事していますね(ちなみに愛用カメラはオリンパスです)。
■《平家物語 一の谷・屋島合戦図屏風》……その前に
源氏と平氏の雌雄を決する戦いは、源平合戦……もしくは治承・寿永の乱と呼ばれています。治承・寿永の乱は、治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)までの6年間続きました。昨年(2022年)の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で描かれましたが、改めて源平による内乱が6年間も続いていたなんて聞くと、ちょっと意外な感じもします。2〜3年でカタがついたのかと思っていたからです。
源平合戦をおさらいすると、まずは前半で源頼朝と甲斐源氏の軍勢が富士川の戦いで、平維盛率いる平氏を打ち破りました。源頼朝の軍勢は、それから一気に攻め上ったのかと言えば……そうではありませんでした。一旦、鎌倉に引き上げて、主に関東の平定に力を入れているんです。その時期に活躍したのが、源義仲です。彼は主に中部や北陸で勢力を広げていき、またまた平維盛などが率いる平氏を打ち破り(倶利伽羅峠の戦いと篠原の戦い)、そのまま上洛を果たします。そこで上手く立ち回れば、源義仲が源氏の棟梁になっていてもおかしくなかったのですが、京の皇族や貴族の中心にいた後白河法皇から嫌われてしまったようです。
その頃の平氏は、安徳天皇を報じて西へ落ち延びていました。そのまま勢力を衰えさせていくのかと思いきや、西日本の武士をまとめ上げて、その勢力を今の兵庫県あたりまで押し返していたんです。
同時期の後白河法皇は「源義仲をどうにかしてほしい」と、源頼朝に上洛を求めました。その源頼朝の代理としてやってきた代表人物が、軍事の天才と言われる源義経です。この源義経が宇治川の戦いで源義仲を倒し、そのまま上洛(上京)したところから、鎌倉源氏もしくは坂東源氏ともいうべき、源頼朝をトップにいただく源氏の一派が、一気に覇権を取っていくことになります。
改めて、現在の東京国立博物館の本館1階「特3室」に展示されている《平家物語 一の谷・屋島合戦図屏風》……の複製品は、そうした勢力を盛り返した西日本代表の平氏に、東日本代表の源氏が、カウンターパンチをくらわす2つの合戦を描いた作品なのです。
■一の谷の戦い(右隻)
源頼朝が鎌倉に幕府を開く以前の1184年……一旦は京都から九州の太宰府まで遁走した平氏は、宇治川の合戦など源氏同氏が争っていた時期に、勢力を盛り返すことに成功していました。九州や四国、そして中国地方の武士を動員し、かつて平清盛が都を置いた福原(現在の兵庫県神戸市中央区あたり)まで進出していました。
そこで登場したのが、源頼朝の弟で軍事の天才と言われる、源義経です。彼は現在の兵庫県神戸市一帯に布陣していた平氏を叩きのめした……ということになっていて、そんな様子を描いているのが、《平家物語 一の谷・屋島合戦図屏風》の右隻《一の谷合戦》です(以下:《平家物語 一の谷合戦図屏風》)。
全体を見ると、平氏が立て籠もる砦(城)に向かって、右側と上部から源氏が攻め立てています。そして城の下部と屏風の左半分には、逃げ惑う平氏に追いすがる源氏が描かれていますね。
一の谷というと、限定された地域を思い浮かべてしまいます。ただし実際の合戦での平氏は、神戸の生田の森から一の谷までの、約10kmに渡って陣を敷いていました。それをギュギュッと縮めて描いたのが、《平家物語 一の谷合戦図屏風》なわけです。
細かく観ていくと、『平家物語』に登場する人物が、左右の屏風に描かれているのが確認できます。と言っても、記された名前のなかで、判読できたものは少なかったのですが……分かった名前をネットで調べると、だいたい『平家物語』のエピソードが記されていて、この屏風にも各人のエピソードに合わせて描かれていることが分かります。
3扇の上部に描かれている下の写真は、一の谷の合戦で最も有名な、源義経の鵯越の逆落しを描いています。ここで先頭を切っているのは、平家物語にあるとおりに佐原義連です。屏風には、通称の「佐原十郎」と記されています。隊列の中程には、弁慶……とあるような気もしますが、きちんとは読めません。
そして屏風の右側からは、源氏勢の、曽我兄弟の継父である曾我祐信と、畠山重忠のいとこの稲毛三郎重成などが、平氏が立て籠もる砦へ迫っています。
屏風の中央に大きく描かれているのが、平氏が立て籠もる砦……なのですが、立派すぎますね。いずれにせよ、砦の右側では防戦する様子が、砦の中の座敷では軍議する様子が、そして下方では駕籠に乗って逃げ始めている様子が描かれています。
砦の右側を拡大して観てみると(下の写真)、右下にチラッと描かれているのは平山季重です。この平山さんは、Wikipediaによれば「一ノ谷の戦いでは源義経に従って、奇襲部隊に参加。同僚の熊谷直実とともに一ノ谷の平家軍に突入して、勝利のきっかけを作った。」とあります。知らなかったのですが、京王線の駅名「平山城址公園駅」の、平山城の城主だったのが、この平山季重さんなのだそうです。そう言われると、当駅へ行ったことはないものの、聞いたことがある駅なので、がぜん親近感が増しますね。
また「江戸某」と記されている方は、平氏の誰かに左腕を切られています。平氏の中にも頑張っている人が居た、ということでしょう。
柵を突破したところには(下写真)、平氏が立て籠もる立派な砦があります。この砦……城が、一の谷の合戦時に存在した可能性は、とても低いというのが専門家の見立てのようですが……描かれた江戸時代には、話を盛るためにも、こういう砦を描いたのでしょうね。
その砦の右側では、平氏が奮戦しているのですが、砦の下や左側では、劣勢になっていく様子が描かれています。砦の下の裏門でしょうか……五曜の紋が記された高貴な人を乗せているだろう神輿が出てきています。その周りには、一緒に逃げる女性や子供も……。
そして砦の左側は、一斉に逃げ出している平氏と、追いすがる源氏の軍勢が描かれています。
下の写真は、その一部分。源氏勢の泥屋四郎吉安と弟の五郎が、平蔵人太夫業盛を討ち取っている様子が描かれています。この様子は平家物語よりも源平盛衰記に詳細が記されているそう。当初は、仲間からはぐれた平業盛が、波打ち際で佇んでいるところを、泥屋吉安が組みかかり、双方が馬上から転落。上になり下になりしているところを、古井戸に落ちたといいます(波打ち際に古井戸があるもの?)。そこを泥屋の弟が発見し、平業盛の兜をムンズと掴んで首をかききったとのこと……。
下の写真に描かれているのも、平家物語の有名なワンシーン。Wikipediaには「平忠度と組み討ち、討たれそうになるも郎党が助太刀して平忠度の右腕を斬りおとしたことで形勢が逆転、観念した平忠度は念仏を唱え、岡部忠澄に斬られた。その後、岡部忠澄は(矢を入れて背に負う)箙に結び付けられた文から、自分が斬った男が平忠度であることを知り、惜しい人物を斬ってしまったと悔やんだという」
描かれているのは、平忠度を切った後に、発見した文を読んでいる岡部忠澄。文には、以下の辞世の句が記されていたそうです。
道を行くうちに日が暮れて、木かげを宿として過ごせば、今夜の主は、桜の花ということになるんだなぁ……と言ったところでしょうか。
■屋島の戦い(左隻)
源義経は、さらに翌年には、四国の屋島に集結していた平氏を撃退し、源平の盛衰を決したと言えるでしょう。
上の写真は、ちょうど源氏方の那須与一が、玉虫御前が掲げた屏風を射抜いた瞬間です。扇と矢が飛んでいくのが分かりますね。残念ながら弓を射る那須さんをアップで撮り忘れてしまいました。
その玉虫御前の様子を見ている船の一団(下写真)には、阿波民部重能が描かれています。背後には揚羽蝶の紋が描かれた盾を背後にして、兜を脱いでしまっています。この方は、田口成良などとも名乗っていて、阿波国(今の徳島県)の住人です。『平家物語』では、屋島合戦の後の、平氏が滅亡する壇ノ浦の戦いで、裏切り者として描かれています(ただし、裏切ったかどうかについては諸説あります)。
下は、平氏の菊王丸です。名前からすると、平氏の身分の高い人の息子かなにかですか? という感じですが……実際には、平清盛の甥の童(小姓)らしいので……まぁ高貴の人っていうほどではなさそうです。幼名で記されていますが、当時は18歳か20歳という説が有力です。
屋島の戦いでは、萌黄縅の腹巻、三枚甲、白柄の長刀を身に着けていたとされるそうで、源氏方の佐藤忠信に腹巻を射抜かれ死亡したと伝わっています(Wikipediaより)。
『平家物語』には、平氏方の奮戦も描かれています。『弓流し』という一章に記されているのがそれです。詳細は記しませんが、周りが逃げ出している中で平氏の数人が立ち止まって追いすがる源氏に応戦します。
源氏方は美尾屋十郎の兄弟、丹生四郎、それに木曽中次の五騎です。まず美尾屋十郎が、長刀(薙刀?)を振り回している平氏を討ち取ろうと飛び出していきます。美尾屋は、平氏の矢に馬から崩れ落ち、平氏方に兜の錣を掴まれて引き倒されそうになります……という場面が下では描かれています。
その後、美尾屋は逃れますが、この時に丹生四郎など四騎は、遠くから様子を伺っていた……ということです……その中には美尾屋の弟もいたはずなのですが……助太刀しなかったのですね。
下は源義経の一団です。先頭には「武蔵坊弁慶」などがいます。弁慶が居るなら源義経も居るはずと、名前を探しましたが、記されていません。ただし、よく見ると弁慶の後ろには、白馬に乗って、一人だけ兜に鍬形(くわがた)を差している人が居ます……これが源義経なのでしょう。
時間の経過が分かりませんが、屏風の上の方……山あいからは源氏の一団が現れています。いくつかの名前が記されているのですが、唯一分かったのは、「一の谷の合戦」の鵯越の際に、真っ先に断崖を駆け下って行ったという佐原義連(屏風には「三浦佐原十郎義連」とあります)。一団の先頭では、平氏の将軍が捕らえられているようですが、名前が読めません……。
下は、和田義盛の弟、和田三郎宗実
合戦図屏風の左側の上の方に描かれているのは、平氏が建てた屋島御所なのでしょう。源氏に攻撃されて、煙が立ち上っています。
■大英博物館に渡った《平家物語 一の谷・屋島合戦図屏風》
前項までの通り、《平家物語 一の谷・屋島合戦図屏風》の複製品が、トーハクの1階「特3室」に展示されています。この江戸時代に描かれた屏風の原本は、現在、大英博物館に所蔵されています。
特製品と言うと、なかなか人気がないのが実情ですが、例えば『大英博物館から百数十年ぶりに日本へ帰ってきた合戦図』などのようにプロモーションすれば、多くの人が観にくることでしょう。でも、そんな時が来たとして、じっくりと観ることはできません。そうであれば、ガラス越しではなく、触れるくらいの場所から見られる、かなり高精細な複製品も悪くないよね……と思ってしまします。
機会があれば、今回は気が付かなかったこと……那須与一など……を改めて観に行きたいと思います。
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