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国宝・重文だらけの特集展示が開催中@東京国立博物館……模本・模造展(前期)

現在、東京国立博物館の本館2階の特1室特2室で、「東博の模写・模造ー草創期の展示と研究ー」が開催されています。以前「トーハクで開催中の、大観や雅邦も筆をとった“公式ニセモノ”展の“非公式”図録」をnoteしましたが、今回は、実際に見てきたうえでの感想を交えて、展示内容をお伝えします。

特1室と特2室で開催中です

まずは、やはり実際に見てみないと分からないものだなぁと強く感じました。

特別1室(特1)
特別2室(特2)

■ボストンへ行ってしまった『平治物語絵巻(三条殿夜討)』

川辺御楯(模写) 原本:アメリカ・ボストン美術館所蔵

『平治物語絵巻』は、『平治物語』という鎌倉時代に記されたフィクション(軍記物)をもとに描かれた絵巻です。いずれも、平安時代末期の平家台頭の契機となった戦乱「平治の乱」を題材にしています。

以前のnoteで、展示品をまとめた時には、てっきり「絵巻」が見られるのかと思っていたのですが、展示されているのは、絵巻の「一部分」を掛け軸に仕立てたものでした。また確かに作品は、川辺御楯みたてが模写したものでした。

『平治物語絵巻』川辺御楯(模写)

こういう、人がワサワサした絵は大好きです。一人ひとりの表情を観察すると、この人はどこを見ているんだろう? とか、なにを考えているんだろう? などと想像が湧き立てられます。またよく見ると、牛車ぎっしゃに"轢かれて"しまっている人も描かれています。どれだけドタバタしていたのかが分かりますね。

牛車の左側に描かれている、薙刀なぎなたを肩がけにした、猿のようなお顔の武士も気になります。

これは、ボストン美術館所蔵の『平治物語絵巻』の『三条殿さんじょうどの夜討巻ようちのまき』の一部分を写したものです。有名な炎が立ち上る館のシーンは、この掛け軸の、もう少し左側に描かれています。

この掛け軸の絵の左下には「本多忠鵬ただゆき出品」と記されています。本多忠鵬ただゆきを調べると、三河国の西端にしばた藩の2代目藩主(明治維新時の藩主)とあります。

絵の左下には「本多忠鵬ただゆき出品」と記されています。模写した川辺御楯みたての名前もありますね

Wikipediaで西端藩を調べてみました。初代藩主の本多忠鵬ただゆきのお父さんは旗本です。それが、幕末に加増されたことで西端藩を興したそうです。「しかし旗本時代から財政が苦しく…(中略)…このため、財政再建と称して慶応元年(1865年)から慶応2年(1866年)にかけて御用金を厳しく取り立て、藩札も発行するなど悪政を行なっている」と、バッサリと切り捨てられています。(Wikipediaより

おそらく次代の本多忠鵬ただゆきになっても、財政は逼迫していたのでしょう。そのため、『平治物語絵巻』を市場に流したのかもしれませんね。それで、アメリカ人のフェノロサが買い取り、その後はボストンの美術館が所蔵することになります。

■国宝になった、京都の風俗街を描いた屏風絵

『彦根屏風(模本)』列品番号A-2893
今田直策なおさく高城たかぎ次郎(模写) 原本:滋賀・彦根城博物館所蔵

あら? 意外と小さいなと思ったのは、『彦根屏風(模本)』です。屏風と聞いて想像する2/3くらいの高さでした。まぁ屏風に標準サイズのような規格があるのかは知りませんが……。

『彦根屏風(模本)』

井伊家に伝わり、現在も彦根城博物館に所蔵されている『彦根屏風』の模本です。国宝に指定されていますが、正式名称は『紙本金地著色風俗図(しほんきんじちゃくしょくふうぞくず)』です。

正式名称から何が描かれているか、はっきりと伺えますね。これは当時の“風俗街”を描いたものです。風俗街を芸術として描き、それが後に国宝になるというのが凄いです。東京で言えば、吉原や鶯谷を屏風絵にしたら、後の人たちからも高い評価を得た……ということですもんね。

過去noteより
『彦根屏風(模本)』。ネットで東博の画像検索して出てくるのは、こうした屏風を開いた状態で撮影されたものです

『彦根屏風』の魅力については、原品ホンモノを所蔵する、彦根城博物館のホームページに詳細が記されています。

各人物は、屏風の山折りと谷折りの形態を活かし、それぞれが緊密な対応関係にあり、そのさまざまな姿態とともに、計算されつくした完成度の高い構図をとっています。また、人物の髪や衣装の文様等、線描と賦彩は精緻(せいち)を極め、器物や衣装の質感までもが表現され、一種生々しい印象を与えます。

彦根城博物館より

「その魅力は、実際に見て感じてくださいね」ということでしょう。屏風を折って立てた模本を観察すると、たしかにそれぞれの人物が、誰と話をしているのかが、よく分かります。

『彦根屏風(模本)』(部分)
『彦根屏風(模本)』(部分)
『彦根屏風(模本)』(部分)

この刀を杖にして、くねっと腰を折っている人が、なぁ〜んか気になってしまいました。どこかで……会ったことはないだろうけど……見たことがある気がするんですよね。

■もはや横山大観の作品でしょ! ……浄瑠璃寺の吉祥天

吉祥天きちじょうてん立像りゅうぞう(写生)』列品番号A-6820
横山大観(筆)原品:奈良・浄瑠璃寺所蔵

浄瑠璃寺の吉祥天きちじょうてん|立像《りゅうぞう》を、横山大観が写生したものです。像の写生なので、ニセモノというか、作品に近いですね。ただ、学術的な写生…記録なので、像の前面、後方はもちろん、左からと右から見た写生の、4枚が残されています。

吉祥天きちじょうてん立像りゅうぞう(写生)』
『吉祥天立像(写生)』(部分)
『吉祥天立像(写生)』(部分)

繰り返しますがこの絵は、吉祥天きちじょうてん|立像《りゅうぞう》を、横山大観が写生したものです。本当は立体の像を、描き留めたということです。そしてこの吉祥天立像を模造したものも、きちんと展示されていました……ただし別の部屋でしたけど。

吉祥天きちじょうてん立像りゅうぞう(模造)』関野星雲せいうん(模)

写生と模造とでは、印象が大きく異なる気がします。写生は、表情が暗いというか、陰影が強いですね。

横山大観の写生1895年と関野星雲の模造1931年が展示されている会場が別れているのは、その製作時期が異なるからのようです。

並べられていれば、写生が実物大なのか? などが分かりやすいんですけどね。感覚値ではありますが、だいたい同じ大きさのようです。ただし、いくつか違いがありました。

こちらが『吉祥天きちじょうてん立像りゅうぞう(模造)』
こちらが『吉祥天立像(写生)』です

パッと見て気がついのは、如意宝珠にょいほうじゅです。Wikipediaによれば、「意のままに願いをかなえる宝」という、とても大事なたまです。これが横山大観が写生した明治初期には"なかった"と考えられます。

合わせて、横山大観の写生にはないのが、頭の上のティアラのような「宝冠」や、ネックレスのような・・・(正式名称分からず……)です。

吉祥天きちじょうてん立像りゅうぞう(模造)』
吉祥天きちじょうてん立像りゅうぞう(模造)』

写生された明治から、模造が製作された昭和初期の間に、宝珠や宝冠、ネックレスが復元されたのでしょうか。それとも元々あったのだけれど、横山大観の写生時には外されていたのでしょうか? 謎ですね。

またさらにじっくりと見ると(会場で撮ってきた写真をみて気が付きました)、ネックレスの下部については、横山大観の写生にも描かれているんですよね。ただし、帯に取り付けられているように描かれています。となると、このネックレスの構造についても、疑問が沸いてきます。

■春日大社から流出した国宝絵巻……の模本

『春日権現験記絵巻 巻第三(模本)』列品番号A-8390-3
前田氏実うじざね、永井幾麻いくま(模) 原本:宮内庁三の丸尚蔵館所蔵

東京藝大美術館の特別展では、混んでいてよく見られなかった『春日権現験記絵巻』を、今回の模本では、好きなだけ見られました! やった!

『春日権現験記絵巻 巻第三(模本)』
『春日権現験記絵巻 巻第三(模本)』(部分)
『春日権現験記絵巻 巻第三(模本)』(部分)
『春日権現験記絵巻 巻第三(模本)』(部分)

写真で見るのとは異なり、実際はもっと線がカチッとエッジの効いた感じでした。

なお、解説パネルによれば「前田氏実うじざね、永井幾麻いくまの二人が(全20巻を)10年近くの歳月をかけて写した」そうです。また、損傷の著しい原本に代わって、この模本が、絵巻の研究を支えてきたそうです。解説は「博物館の近代模本のなかでも記念碑的な大作と言える」と最大限の賛辞で締めくくっています。

↑ 前回に引き続き、巻三(模本)の全編をスクロースさせた動画です。

■大人気の『鳥獣戯画(甲巻)』も、模本であれば並ばずじっくりと見られる!

山崎董洤(模) 原本:京都・高山寺所蔵
特別展で取り上げるたびに大混雑となる『鳥獣戯画』ですが、東京国立博物館にある模本(甲・乙・丙・丁)は、絵師の山崎董洤とうせんさんが模写したものです。

と記しましたが、懸念した通り、見られるのは2mくらいでした。もっとズ〜ン! と見たかったのですが…。

あまりにも短いので、写真を撮り忘れました。

ということで、以下のYouTubeでお楽しみください。

■数年に一度しか見られない中尊寺の秘仏……の模造です

『一字金輪坐像(模造)』列品番号C-299
新納にいろ忠之介ちゅうのすけ(模) 原品:岩手・中尊寺所蔵

中尊寺でも秘仏とされていて、不定期の数年に一度しか御開帳されないそうです。それが模造とはいえ、東京で拝見できるというのは……なんだかありがたいような気がします。

実際に見てみると……すごく表情のおだやかな像でした。こんなにじっくりと仏像を見つめたのは、初めてだったかもしれません。

『一字金輪坐像(模造)』
『一字金輪坐像(模造)』(部分)
『一字金輪坐像(模造)』(部分)

仏像修理に生涯をささげた新納忠之介(にいろ ちゅうのすけ)が、平安時代後期の中尊寺の秘仏を模刻したもの。当時、東京美術学校の助教授であった新納が、同校に依頼されていた中尊寺金色堂の修理のかたわら、模刻に取り組みました。 実物とみまがう出来映えは、 新納の彫刻家としての技量をよく伝えています。

解説パネルより

また模造を製作した新納忠之介さんは、2,631体の仏像などの文化財を修理した、彫刻家なのだそうです。「修理前後の写真や書面など詳細な記録を残しており現在の文化財修理の基礎を築いた」とWikipediaには記録されています

仏像に詳しいわけではありませんが、すばらしいものだと思いました。展示期間中にまた見に行きたいです。

また、おまけと言ってはなんですが、菱田ひしだ春草しゅんそうが模写した『一字金輪像いちじきんりんぞう(模本)』がありました。菱田さんは、明治28年の東京美術学校を卒業した後に、博物館の模写事業に関わったそうです。

菱田ひしだ春草しゅんそう一字金輪像いちじきんりんぞう(模本)』(部分)
菱田ひしだ春草しゅんそう一字金輪像いちじきんりんぞう(模本)』(部分)

■そのほか見どころが多かったニセモノ展

前項までに記した作品が、展示会へ行く前に抑えておきたいと思っていたものです。

ただ、そのほかも瞠目するような作品が少なくありませんでした。とくに私は、絵巻が好きなようで、いちいちじっくりと眺めてしまいました。

ここからは、解説をはぶき、ほとんど写真でのみの紹介にしたいと思います。

●『慕帰絵ぼきえ 巻第六(模本)』 
原本:京都・西本願寺所蔵

慕帰絵ぼきえ 巻第六(模本)』 (部分)
慕帰絵ぼきえ 巻第六(模本)』 (部分)
慕帰絵ぼきえ 巻第六(模本)』 (部分)

●『紫式部日記絵巻(模本)』
井芹いせり一二いちじ(模)
原本:五島美術館、トーハク

『紫式部日記絵巻(模本)』(部分)
『紫式部日記絵巻(模本)』(部分)

現在、五島美術館、東京国立博物館、個人で分蔵される同絵巻の絵のみの模本です。原本は昭和8年 (1933) に分割されましたが、本作はそれ以前に作られたにもかかわらず個人蔵分が写されていません。

解説パネルより

●『祭礼さいれい草紙そうし(模本)』
前田貫業つらなり(模) 原本:前田育徳会所蔵

祭礼さいれい草紙そうし(模本)』
祭礼さいれい草紙そうし(模本)』(右部分)
祭礼さいれい草紙そうし(模本)』(左部分)

背面に「前田利嗣(としつぐ)蔵」とあり、明治15年(1882) の内国絵画共進会出品の折に写されたと考えられます。本作のように絵巻の一場面を写し、 額装した模本が陳列に供されました。(模写した)前田貫業(つらなり)は博物局に勤め、春廼舎と号して内国絵画共進会に出品するなど土佐派絵師としても活動しました。

解説パネルより

●『厳島神社蔵経模本(平家納経装幀模本)巻第一』
長命晏春、多田親愛ほか模 厳島神社所蔵

すばらしいものでした。写真では表現が難しいのですが、キラッキラしていました。

『平家納経装幀(模本)』
『平家納経装幀(模本)』
『平家納経装幀(模本)』

平家納経の模本です。原本では裏も表も絢爛豪華な装飾が施されていますが、本作は、表紙、見返し、経文、本紙下絵などを別に写して一覧できます。明治15年(1882)、当館開催の内国絵画共進会へ原本の出品を契機に模写しました。

解説パネルより

以下のサイトは、平家納経の模本について記されています。

●『鳥毛篆書てんしょ屏風(模造)』
内務省博物局(模) 原本:正倉院宝物

『鳥毛篆書てんしょ屏風(模造)』

君主座右の格言を鳥毛貼りの篆書てんしょと吹き絵の楷書かいしょとで交互に表しています。 

解説パネルより
『鳥毛篆書てんしょ屏風(模造)』
『鳥毛篆書てんしょ屏風(模造)』

解説パネルに書いてある「鳥毛貼りの篆書てんしょ」というのが、いまひとつピンとしませんでしたが、よぉ〜く見ると、篆書てんしょの方の文字がケバケバしていました。なにやら鳥の毛を貼り付けている…という意味のようです。(いろんな角度で撮ってみましたが、iPhoneだと、ケバケバ感が表現できませんでした)

●『荏柄えがら天神縁起えんぎ絵巻(模本)』
佐藤栄三郎(模) 原本:前田育徳会所蔵

荏柄えがら天神縁起えんぎ絵巻(模本)』(部分)
荏柄えがら天神縁起えんぎ絵巻(模本)』(部分)

川の流れの描き方が、後年の浮世絵などに引き継がれているんだろうなと感じました。

●『梅に鼬雀ゆうじゃく図(模本)』伝・長谷川等伯筆
岡田しゅう(模) 原本:無し…

『梅に鼬雀ゆうじゃく図(模本)』

裏書によると、模写当時は「梅野」 なる人物の所蔵で「大阪博物場」にあったと推察される、原本は失われてしまった伝長谷川等伯筆作品の模本です。模写者の岡田秀(しゅう)は東京美術学校製版科教授などを務め、絵画および図案の指導に当たりました。

解説パネルより

今はもう原本が存在しないのか、紛失したのか……。いずれにしても、模本を作っておいたのが、不幸中の幸いと言ったところでしょうか。

『梅に鼬雀ゆうじゃく図(模本)』

イタチ(鼬)の毛の感じが、写真で見るよりもふさふさした感じだったのはたしかです。かなり優れた模本だったような気がします(ド素人が評価するのもなんですが……)。

●『先徳図せんとくず像(もほん)』
阿部つとむ

先徳図せんとくず像(もほん)』(部分)
先徳図せんとくず像(もほん)』(部分)

原本はインド・中国・日本の祖師たちを描いた当館に所蔵される白描図像です。もとは高山寺に伝来しました。本図を描いた阿部務は大正5年に東京美術学校を卒業しました。本作品の他、当館には敦煌壁画を模写した作品が数多く収蔵されています。

解説パネルより

普賢ふげん菩薩像(模本)
高屋肖哲しょうてつ(模) 原本:トーハク

普賢ふげん菩薩像(模本)』(部分)
普賢ふげん菩薩像(模本)』(部分)

●『金銅そう眉庇付まびさしつきかぶと (模造)』

『金銅そう眉庇付まびさしつきかぶと (模造)』

5世紀の古墳時代の古墳時代の権力者が着用した鉄製冑で、頂部の飾りが金銅製です。古墳から出土した原品は錆で覆われ、庇の一部が欠け、頭周りのは崩れ落ちていました。本品は、東京帝室博物館歴史課の後藤守一監修のもと制作したもので、本来の姿を教えてくれます。

『金銅そう眉庇付まびさしつきかぶと (模造)』
『金銅そう眉庇付まびさしつきかぶと (模造)』

福井県永平寺町の二本松山古墳で出土した、現在は平成館の考古室に展示されている、下写真のかぶとを復元したものです(原品が現在展示されているか不明ですが、似たようなのはいくつか展示されています)。

『金銅そう眉庇付まびさしつきかぶと』トーハク所蔵

野球帽のように半月形の庇(ひさし)がつく鉄製冑です。小札(こざね)という鉄板を鋲(びょう)でつなぎ留め、頂部の伏鉢(ふちばち)、管、受鉢(うけばち)には金メッキを施すなど、朝鮮半島から伝来した5世紀の最新技術を用いています。石棺からの出土で状態はよく、 古墳時代冑 の中でも華麗な一品です。

『金銅そう眉庇付まびさしつきかぶと
眉庇まびさし付き冑』兵庫県加西市 亀山1号出土(トーハク所蔵)
『金銅製眉庇まびさし付き冑』祇園大塚山古墳出土(トーハク所蔵)

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