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神風が撃破した「元寇船」が海底で見つかったって知っていました? @國學院大學博物館

國學院大學博物館では、1274年と1281年に中国と韓国の連合軍が対馬〜壱岐〜博多に来襲した、「元寇」をテーマとした特別展『海底に眠るモンゴル襲来〜水中考古学の世界〜』を開催しています。半年くらい前から楽しみにしていた企画展だったので、さっそく行ってきました。


※なお、誤字脱字が多いと思いますが、そのうち直しますのでご了承ください。

■見つかった「元の沈没船」

鎌倉時代の「元寇」の「文永の役(1274年)」と「弘安の役(1281年)」といえば、高校あたりの日本史の授業に出てきますよね。この時、日本は2度にわたって、現代の国名を使えば、中国と韓国の連合軍に襲撃されたのですが、その2度とも撃退しました。授業で先生は、曰く「神風が吹いて、大打撃を受けた元軍は撤退していった」と説明していたし、もう少し詳しく「日蓮上人はモンゴル襲来を予言していた」とも言っていたかもしれません。

そして教科書には、元寇の項目とともに、三の丸尚蔵館に所蔵されている国宝《蒙古襲来絵詞》の写真が載っていたはずです。竹崎季長(すえなが)という武将が、「俺は頑張って蒙古のやつらを追っ払った! だから恩賞をくれ!」と主張するために、この絵詞を作らせたと言われていますよね。

でも、《蒙古襲来絵詞》の写真も、教科書にはものすごく小さく、しかもわたしの頃にはモノクロでしか載っていませんでしたから、いまいち「リアル」な感じがしなかったんですよね。「本当に元の大軍が海をわざわざ海を渡って攻めてきたのかな?」とか、歴史教科が好きでなければ……「元寇なんて、習ったっけ?」という人も少なくないはずです。

それがですね……近年、その中国と韓国の連合軍が乗ってきた「元軍の軍船」が九州の長崎県松浦市の海の中から、なんと「発掘」されているんです。しかも1隻ではないんですよ……2隻が見つかったほか、3隻めではないかと言われているものが海中で見つかっています。←そう書きながら、念の為にもう一度調べてみたら、これが3隻目だということが確実視されたと、先週(2024/10/12)、報道発表されていました。

↓ 2024年10月12日RKB毎日放送ニュース 『”元寇の船”3隻目を確認「まるでつい最近沈んだかのよう」な木材の色や形 短刀や指輪状の金属製品も』

さらに2年前には、元寇船のいかりを引き揚げています。

↓ 2022年10月03日RKB毎日放送ニュース『モンゴル軍襲来“元寇船”の碇(いかり)、741年ぶりに長崎沖で引き揚げ~視界不良の泥中』

いかりを引き揚げたのは2年前ですが、海中の捜査が開始されたのは1980年(昭和55年)のことで、船の本体を発見したのは2011年(平成23年)10月のことです。沈没船が発見された海域は、2012年に海底遺跡としては初めての国史跡「鷹島神崎遺跡」に指定されます。さらに2015年には、2隻目の沈没船が同じ海域で発見されます。

↓ 2012年10月10日KYODO NEWS『元寇沈没船は二重の船底  長崎・鷹島の海底遺跡」

そして、なんで國學院大學博物館で、特別展『海底に眠るモンゴル襲来〜水中考古学の世界〜』が開催されているかと言えば、上記の遺跡調査を主導されているのが、同大の出身で教授である池田榮史(いけだ よしふみ)さんだから……ということになるのでしょう(2021年3月までは琉球大学の教授として遺跡調査をされていました)。

■元の沈没船とともに見つかった様々な遺物

元寇の沈没船が発見されたのは、長崎県松浦市鷹島町神崎という大きくない港……湾の中です。

第一次の元寇「文永の役」では、韓国の合浦を出た元軍……中韓連合軍は、まず対馬と壱岐を落として、そこから鷹島を経由して博多湾に向かったようです。そのまま博多近辺に上陸するも、鎌倉幕府の軍勢に叩きのめされて、橋頭堡を築くことができませんでした。上陸した兵も船に戻り、態勢を立て直すためだったのか壱岐や鷹島に引き揚げていったようです。その撤収先の壱岐や鷹島で、暴風にさらされて、かなりの数の軍船が沈んだといいます。

第二次の元寇「弘安の役」の元軍は、第一次元寇の何倍もの兵力を動員しました。ただしげんは、朝鮮半島経由の東路軍(げんに屈した高麗の兵が主力)と、中国本土からの江南軍(げんに屈した南宋の兵が主力)とに分けて派兵。結局、中国本土からの船は戦闘に間に合わず、東路軍のみが博多へ侵攻しますが、鎌倉幕府の応戦により一時撤退を決め、壱岐や対馬に戻ります。本体である江南軍を待つことにしたようです。その後、江南軍が鷹島を含む伊万里湾に辿り着いた時に、今度は台風により多数の船が被害を受けます。被害は江南軍にも及んでいたようで、両軍ともに博多に再侵攻することなく、撤収したそうです。

文永と弘安の両戦役で、げん軍の船は、鷹島でも被害を受けます。そのため鷹島には以前から、沈没船から漏れ出た遺品が海底にごろごろと転がっていたのが確認できたそうです。

文永の役の時の元軍の侵略路

鷹島は、入り組んだ湾の中にあり、海賊船などが潜むのにほど良さそうな場所にありますね。

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《管軍総把印(そうはいん)》
長崎県松浦市鷹島海底遺跡採集
松浦市教育委員会

昭和49年(1974)春、鷹島神崎港の近くに住む地元の方が海岸で貝掘り中に発見した銅印を科学研究費による調査を行なっていた調査団の下に持ち込みました。銅印の印面にはフビライが作らせたモンゴルのパスパ文字で「管軍総把印」、裏面には漢字で「中書礼部至元十四年九月口日造」と記されていました。「至元十四年」はフビライ統治下の1277年にあたり、弘安の役の前に下賜された元軍部隊の役職を示す公印で、弘安の役の際に水中に没した後、神崎の海岸に打ち上げられたと考えられます。

解説パネルより
《管軍総把印(そうはいん)》


《褐釉陶器壺(かつゆうとうきつぼ)》
長崎県松浦市鷹島海底遺跡採集
松浦市教育委員会

地元の人々によって持ち寄られた陶磁器には貝殻が付着したものが多く、地元では「元寇」と呼んでいます。

解説パネルより
《褐釉陶器壺(かつゆうとうきつぼ)》
《鉄製兜》

海底から出土した鉄製兜は鉄錆と海底の堆積物が溶着した状態(コンクリーションと呼ぶ)で見つかっています。レントゲン写真を撮ると、真鉄の部分は全く残っておらず、磁石を近づけても反応がありません。

解説パネルより
《矢束》

本来は矢筒(胡ろく)の中に数十本の矢がまとめて収納されていましたが、矢柄や矢部分は失われ、錆膨れした鏃部分と矢筒に用いられた皮革の一部がコンクリーションに覆われて残っています。

解説パネルより


《てつはう》
写真がブレブレだったのが残念……

『蒙古襲来絵詞』に騎馬の竹崎季長の近くで爆発する黒い球状製品が描かれ、「てつはう」と記されています。鷹島神崎港改修工事に伴う緊急調査で複数出土したこれらの「球状土製品は『蒙古襲来絵詞』に描かれた「てつはう」と考えられます。

解説パネルより
2003年度の調査報告書

2003年度の調査報告書によれば、平成14年7月から12月までの発掘調査で、大型船の隔壁板、外板、「王百戸」銘墨書青磁碗、漆椀等の文字資料、鉄、矢来、剣、「てつはう」、鎧の漆塗小札、赤漆櫛、銅製鈴、帯金具、硯、玉製ミニチュア、炭化穀物、木炭、中国陶磁器、各種の銭などが出土したとしています。

てつはうについては、前述の調査報告書の表紙に、海底で発見した時の状況写真が使われています↑。実際には砂を吸い込みながら、発掘していったそうで、最初からこの写真のような状況でゴロンと転がっていたものではなさそうです。それでも、こんなにしっかりとした球状で発見されたなんて……なんだか感動モノですね。

1992年に鷹島の神崎海岸で採集された球状製品は、内部にものが詰まった状態であったことから、九州国立博物館においてX線CTスキャン画像を撮影しました。その結果、内部に小さな鉄片や陶器片、木片が詰められており、火薬で爆発させると、かなり殺傷力の高い兵器であることが明らかになりました。

解説パネルより

■発見された元軍の沈没船

鷹島1号沈没船と2号沈没船は基本的に中国船の構造を持っています。1号沈没船は船底の中心をなす竜骨材と外板と船内を仕切る隔壁材の一部が残っていました。2号沈没船は隔壁と隔壁に打ち付けた外板材の中の竜骨に近い部分がよく残っています。
1号沈没船と2号沈没船では用いた木材の厚さや隔壁間の奥行長に若干の違いがあり、1号沈没船に比べて2号沈没船がやや小型になります。発掘後の2腹は砂で埋め戻し、酸素を通さない特製シートで二重に覆って現地保存してあります。

解説パネルより
鷹島1号沈没船
1/10スケールの3次元模型
鷹島1号沈没船
1/10スケールの3次元模型
鷹島2号沈没船
1/10スケールの3次元模型

鷹島に沈没していた2隻の沈没船のうち、どちらを参考にして作ったのかは分かりませんが(どこかに書いてあったのでしょうが……)、げんの軍船の模型も展示されていました。第一次元寇である文永の役では、様々なタイプの舟があったでしょうけど、総数は約900隻とも言われています(兵数は2万5千人)。

歴史書は、たいてい大げさに記すものですから、実際には仮に半数だとしても450隻ですからね……すごい数なのは間違いありません。また7年後の第二次元寇…弘安の役では、さらに数倍の兵力で侵攻しようとしたようなので、「ほんとにそんな大軍船団で攻撃してきたのか?」と疑いたくなりまうけれど……まぁ圧倒的な兵数で侵攻しようとしたのは間違いないでしょう。

■企画展観覧後……

今まで遠くの昔に起こった出来事……という感じでしかなかった「元寇」が、今回の展示を観たことで、かなりリアルな雰囲気を帯びてきました。

それと同時に、どうしてげんは日本に攻めてきたんだろうか? という思いも深まります。こんなちっちゃい島国を占領して、元は何を得たかったんでしょうか? 単に、今の中共と同じように、独裁者の権威を高めるために他国を平服させたいと考えていたのでしょうか?

ということで、鎌倉時代の主に中国の宋朝との交易内容を調べてみると……金、銀、硫黄、水銀、真珠などが重要な輸出品だったようです。もちろん高校の時に習った刀剣や漆器も含まれていたことでしょう。これらをげんがほしかった……というのはありえることです。

特に硫黄は、皮膚病や寄生虫の駆除のほかに、火薬製造にも使っていたようです。前述した「てつはう」というのがどのくらい戦闘に使われていたのか分かりませんが、火薬の使い方は砲弾以外にもありますからね。

刀剣については、高校の日本史の授業でも、長らく日本の主要な輸出品として挙げられていました。でも不思議ですよね? 日本製の刀剣が中国から出土したとか博物館に展示されているといった話も聞きません(そもそも中国の情報を追っていないから……というのもあるでしょうけど)。となると、どこかのサイトで読んだのですが、中国は、刀剣としてではなく精錬された鉄として……素材として日本から輸入していたのではないか? ということです。わたしはこの説を支持しています。

こうした品々の主な輸出先は、げんではなく当時の交易国だった宋(そう)……元寇当時は、げんの敵対国である南宋だったんですね。敵対国である宋を支援する日本=鎌倉幕府を、なんとか手懐けたい……日本と宋の交易を遮断したい……そんな目的が元にはあったようです。そして元は、先に屈服させた韓国=高麗から、日本へ使者を送らせるわけです。

そこで高麗国王は「はからずも」……いやいやですけれども、使者を送ることにしました……というのが韓国の史書『高麗史』に記されています。その『高麗史』も、展示されていました。

《『高麗史』巻26》
鄭麟趾ほか撰
朝鮮・文宗年(1451)

『高麗史』に採録された高麗国王による日本への国書には日本への仲立ちを求めるフビライに対して、「不獲日(はからずも)」とあるように否応なく対応せざるを得なかった高麗の苦渋が記されています

解説パネルより

上の画像データを使って、文字を認識させたものを、そのままChatGTPに流し込んで訳してみました。高麗王が「はからずも」げんと日本との仲立ちをサせられて、困っている様子が読み取れますね。

「正朔有年矣皇帝仁明以天下為一家視遠如邇日月所照咸仰其德令欲通好於貴國而詔寡人云日本與高麗為隣典章政治有足嘉者漢唐而下屢通中國故特遣書以往勿以風濤阻險為辭其旨嚴切兹不獲日遣某官某奉皇帝書前去貴國之通好中國無麻無之况令皇带之欲通好貴國者非利其直獻盖欲以無外之名高拎天下耳者得貴自之通好於厚寄尺供遣一介之上以注觀」

以下がChatGTPによる日本語訳
正朔(暦法)を守ることは長年に及んでいます。皇帝は仁慈と聡明さをもって天下を一家とし、遠いものを近いもののように見ています。日月が照らすところ、皆がその徳を仰ぎ見ています。皇帝は貴国との友好を望み、私に詔を下されました。その詔にはこうあります。『日本と高麗は隣国であり、その制度や政治には称賛すべき点がある。漢や唐の時代から中国と頻繁に通交してきた。だから特に書簡を送り、風波や険しい道を理由に拒むことがないようにせよ』と。その命令は厳格であり、やむを得ず某官を派遣して皇帝の書簡を持たせ、貴国に赴かせます。中国は友好を無視することなく重視しています。ましてや皇帝が貴国との友好を望むのは、その献上物を目的としているのではなく、無外(偏りのない)という名声を天下に広めたいからです。貴国との友好が厚く続き、手厚い贈り物が寄せられることを期待し、使者を派遣する次第です。

その高麗王が日本に送ってきた書の内容を記している、おそらく日本側の書が『大蒙古国皇帝奉書(蒙古国牒状)』です。これは『八幡愚童訓』からの引用なのか、同書の中に記されている部分なのか分かりませんが……。

日本国主朕●自古小国之書●土相接尚務講信修●況我祖宗受天明命奄有區●遐方異域畏威懐德者不可●敷朕即位之初以高麗●之民●鉾鎬即例罷兵還其●域友其ハウナイ高麗君臣感戴來親義雖君臣而歡若父子計王之君臣亦已知之高麗朕東藩也日本密迩高麗開国以来亦時通中國至●朕躬而無一乗之使以通和好尚怨王國知之未審●特憶遣使持書布告朕志●自今以後通問結好以相親睦且聖人以四海為家●不相通好豈一家之理哉以至用兵夫孰所好王其圖之不宣至元三年八月日とそ書たりける牒状箱の上書には一八と書を●は開と讀たりさて箱したりに開けたりよめずして箱を破たらば日本の耻ならまじ其時にては君も臣もお覚の人多くして如●文書も不審なし牒使の名は召豪弼と云り黒蒙古白蒙古に人随へり白蒙古は身白く髮にて白し黒蒙古は身黒●体皆黒公家に泰者する丁文永五年二月一日●是につづきて返牒可有否牒使の首をきるべきや否諸道之勘文つ召し苦行●議數け度あり異儀様●成しかと返牒はなくして牒使い計追返されにけり是則●野に放って狼つかうにことならず●牒使夜●筑紫の地を見●り船津軍●●て委く指圖をし人の景気を相し所の案内をしるして●にけり後嵯峨法皇御賀行しとて天下の営他事をさしをきしもととめられ異国降伏の御祈祷諸寺諸社に始らる當宮には三月五日より浄行の社僧四十五人を以て……

いまいち訳が良くなかったというか、実際の意味と合っていなかったので、ここで記すのはやめておきます。上記の読み取った漢字が不完全だったのかもしれません。いずれにしても、1266年にフビライ・ハンから、下記のような内容の文書が送られてきました。

まずは「大蒙古国皇帝、書を日本国王に奉る」から始まり、モンゴル帝国の皇帝として日本国王に書簡を送ることを宣言しています。続いて「小国の君主でも、隣接する国々と友好関係を築くべきだ」と外交関係の重要性を述べています。そして、「モンゴルの祖先が天命を受けて広大な領土を支配し、多くの国々がモンゴルの威光を恐れ、徳を慕っている」とモンゴル帝国の威光を主張しています。実際に、日本との友好関係が続いている高麗を例に挙げ「高麗をモンゴルの東の藩属国として扱い、げんは高麗との良好な関係を築いている」……だから日本も安心しろ、ということでしょうか。さらに「日本が過去に中国と交流があったにもかかわらず、モンゴル帝国とは未だ外交関係がないことを指摘し、今後の友好関係構築を望む」と、フビライ・ハンからの酷暑にはつづられていたそうです。

わたしは読んでいませんが、下記の論文に詳細が記されていそうです。いつか読むかもしれないので、ここに残しておきます。
九州大学大学院講師・舩田善之 著『日本宛外交文書からみた大モンゴル国の文書形式の 展開

ちなみに中国語のWikipediaにも、フビライ・ハンが送ったという奉書の、日本側の資料が貼り付けられています(日本語版には同資料は無し)。だいたい上に記したとおりのことが記されているようです。

中国語のWikipediaに保存されている文書。キャプションには「この国書の1268年の複製品は、現在、日本の東大寺尊勝院に所蔵されており、『蒙古国牒状』または『調伏異朝怨敵抄』と呼ばれている。」と記されています。

書かれているのは、以下のとおりです。これもWikipedia(wikisource)に記されているものを転載しました。

上天眷命
大蒙古國皇帝奉書
 日本國王朕惟自古小國之君
 境土相接尚務講信修睦況我
祖宗受天明命奄有區夏遐方異
 域畏威懷德者不可悉數朕即
 位之初以高麗無辜之民久瘁
 鋒鏑即令罷兵還其疆域反其
 旄倪高麗君臣感戴來朝義雖
 君臣歡若父子計
 王之君臣亦已知之高麗朕之
 東藩也日本密邇高麗開國以
 來亦時通中國至於朕躬而無
 一乘之使以通和好尚恐
 王國知之未審故特遣使持書
 布告朕志冀自今以往通問結
 好以相親睦且聖人以四海為
 家不相通好豈一家之理哉以至
 用兵夫孰所好
 王其圖之不宣   至元三年八月 日

wikisourceより

その後、どうなったのかについては……

1266年にフビライ・ハンから送られてきた国書を無視した日本は、北九州の防衛態勢を強化しました。さらに1299年にげんが派遣した禅僧一山一寧を、スパイの疑いで拘束し、伊豆修善寺に幽閉します……と言っても、高僧としておもてなししていたようで、この人の水墨画などが東京国立博物館(トーハク)にもいくつか収蔵されています。

さらに、フビライ・ハンからの国書を公式には拒否した日本ですが、実際には日元間の貿易も行なわれていましたし、日本からも主に僧侶がげん朝の中国に渡っています。断交したわけではなかったということです。

とはいえ、フビライ・ハンから国書が送られてきてから8年後の1274年に、とうとうげん軍が攻めてきました。8年間、準備期間があったわけで、その間に日本の僧もげんに渡っていたようだし、げんはもちろん高麗とも交易があったのですから「とうとう元が攻めてくる」といった情報は、日本側にも逐一伝わっていたことでしょう。

企画展では、このあたりの詳細は展開していませんが、それでも何冊かの歴史書を展示し、経緯を体感できるようにしています。

とにもかくにも第一次の元寇である「文永の役」が1281年に始まり、そして日本がげん軍の撃退に成功します。まぁ主力は、いやいや侵攻させられている朝鮮半島の高麗の人たちですから、士気も高くはなかったはずです。高麗にとっての日本は、主要な交易相手でもあったでしょうから、高麗政府からすれば、日本に悪い印象はできるだけ与えたくない……という思惑もあったでしょう。

さて、第一次元寇である「文永の役」が散々に終わったとはいえ、げんからすれば、主力は朝鮮半島の高麗人たちだったから、痛くも痒くもない……といった感じだったかもしれません。

そこで第二次元寇である「弘安の役(1281年)」が、7年後に始まります。文永の役(1274年)当時、げんは南宋を滅ぼすために戦争状態でした。しかし、げんは1279年に南宋を滅ぼします。既に朝鮮半島の高麗は屈服していますし、中国の南に逃げていた南宋も長い戦いの後に滅ぼしました。あと屈服しないのは、日本だけ……という状況になりました。また日本で、長い戦国時代が終わった後に、余剰戦力の処理のために豊臣秀吉が大陸へ攻め込んだように、元もまた余剰戦力を持て余していたかもしれません。

とにもかくにも、1281年の第二次元寇「弘安の役」では、高麗からの「東路軍(4万人と900隻)」だけでなく、旧南宋の兵力をまとめた「江南軍(10万人と3,500隻)」も編成。かつての数倍の兵力を使って、日本の博多へと向かわせることにしました。

まぁでも「弘安の役」もまた、けっこう雑な戦略を立てるし、現地指揮官も優秀ではなかったようにも思えます。当初、朝鮮半島発の東路軍と大陸発の江南軍は、対馬や壱岐で合流してから博多へ攻め込む計画でした。それがなんと、江南軍の出発が1カ月も遅れた上に、江南軍が待ちきれずに単独で博多へ攻め込んでしまいます。準備万端だったかは分かりませんが、日本の幕府軍は準備していましたので、東路軍を殲滅します。第一次元寇の時と同様に、船に逃げ東路軍は、そのまま対馬や壱岐、それに鷹島などに一旦退きました。その後、大陸発の江南軍が到着。今度こそ博多に上陸して太宰府を攻め落とすぞ! という時に……今度は台風がげんの両軍を襲います。第一次元寇の時には暴風だったそうですが、第二次元寇の際には台風だったそうです。

今でもそうですが、台風って、あまり中国大陸や朝鮮半島へ向かいませんよね。もしかすると彼らは台風の猛威を経験していなかったのか、それとも台風は10年20年に一度くらいしか来ないものと思っていたのかもしれません。そして、先に挙げた船も両軍あわせて4,400隻ですからね……それらを対馬と壱岐、それに鷹島などの伊万里湾に「浮かべていた」としたら、現在の最新の船であっても座礁などが免れないだろうなと思うわけです。

ということで、第二次元寇では、どうやら本体とも言える江南軍は、戦闘に参加すらしなかったようで、そのまま両軍とも引き上げることになりました。

撤収する様子は、中国の公式の歴史書『げん史』にも記されています……ということで企画展にも展示されていました。同じ中国人が編んだ公式の歴史書に、ずいぶんと無様な様子が記されているなぁとも思いますが……これは、あくまでも元を倒した後の明朝に編纂されたものであることに留意が必要です。過去の王朝を否定し、その歴史書ではできるだけ貶しまくる……というのが中華や朝鮮半島の歴史だと言えるでしょう。そうであればこそ現在の皇帝の正当性が主張できるようです。

『元史 巻208 列伝95』
官軍六月入海七月至平壺島移五龍山八月一日風破舟五日文虎等諸將各自擇堅好船乘之棄士卒十餘萬于山下眾議推張百戸者爲主帥號之曰張總管聽其約束方伐木作舟欲還七日日本人來戰盡死餘二三萬為其虜去九日至八角島盡殺蒙古高麗漢人謂附軍為唐人不殺而奴之間輩是也蓋行省官議事不相下故皆棄軍歸久之莫青與吳萬五亦逃還十

<以下はChatGTPによる訳>
官軍は6月に海に出て、7月に平壺島に到着し、五龍山に移動した。8月1日には風で船が壊れ、5日には文虎ら諸将がそれぞれ堅固で良い船を選んで乗り込み、士卒10万人以上を山の麓に置き去りにした。そこで皆の議論によって張百戸が主帥(指揮官)に推され、「張総管」と呼ばれて命令に従うことになった。彼らは木を伐って船を作り、帰ろうとしていたが、7日、日本軍が攻撃を仕掛けてきて全滅し、残った2〜3万人が捕虜として連れ去られた。9日には八角島に到着し、モンゴル軍、高麗軍、漢人が皆殺しにされた。附軍(従軍していた者)を「唐人」と呼び、彼らは殺されずに奴隷とされた。行省の官たちは意見がまとまらず、皆軍を捨てて帰還した。しばらくして、莫青と呉万五も逃げ帰った。

近年では、中国の文化大革命がそれであり、韓国が今でも過去の政府をケチョンケチョンに否定しまくり、日本との約束事まで否定して守らない……というのも、そうした慣習から来ているような気がします。

そうして中国や韓国の政権が移り変わるごとに、焚書などが行なわれるため、日本には大陸から、美術品を含む多くの人材や文物が渡ってきている……というのは、最近、中国人も認めているようだと思い始めました(韓国人は認めていませんけどね)。ということで、太平洋戦争の戦没者を靖国神社に祀っている理由を、中韓人が理解できないのもやむなしかな……という気もします。

まぁそれはそれとして、第二次元寇「弘安の役」では、模型にあるようなげん軍の艦船が、伊万里湾にいるところを台風に襲われました。解説には「長崎・佐賀県境に東西約十三km、南北約八kmの規模を有する伊万里湾があります。伊万里湾は閉鎖性が高い内湾のため、風や潮流の影響を受け難いことから、現在でも対馬海峡を通航する船舶にとって天候が悪化した際の緊急避難場所となっています」とありますが、元軍は甚大な被害を免れることができませんでした。

水中で描かれた元軍の沈没船の様子

解説は続けて記します。「伊万里湾内では漁業者の網に中国陶磁器が入ることがあり、湾口を塞ぐ位置にある鷹島にはモンゴル襲来に関する多くの言い伝えが残されています。このことから伊万里湾は長く『弘安の役』の舞台であったとされ、一九八〇年以降モンゴル襲来の実態解明を目指した水中考古学的調査研究の対象地となりました」と……。第一次元寇の「文永の役」の舞台にはなっていない……と考えられている理由は分かりませんが……とにかく地元では、考古調査が始まる前から中国由来の陶磁器が網にかかることが多かったようです ← だからですね……。もしかすると朝鮮半島由来の遺品は、見つかっていないか、数が少ないため「これは弘安の役の江南軍のものだろう」と推測されているのかもしれません。

「内モンゴル自治区文物考古研究所長陳永志氏によると、モンゴル族の有力者は冠帽に玉製品の飾りを用いる習慣があり、本資料はその一例であるとのことです。」(解説パネルより)


■大河ドラマ『光る君へ』と無理やり繋げる、元寇までの簡単な経緯

大河ドラマ『光る君へ』で、最近の回では藤原伊周が完全に失脚しました。その弟の藤原隆家は、藤原道長への忠誠をドラマの中では誓っていますよね。この乱暴者として知られていた藤原隆家さん……日本史上でとんでもない功績を挙げた人でもあるんです。

今週回はまだ観ていませんが、このあと、藤原隆家さんが太宰府へ赴任することになります。その藤原隆家さんの任期中に……なんと、元寇の予行演習とも言える「刀伊の入寇(といのにゅうこう)」という事件が勃発します。1019年のことです。「刀伊(とい)」という人たちに北九州が攻め込まれ、その時に日本の大将だったのが藤原隆家さんということです。この時は、藤原隆家さんが地元・北部九州の諸将をまとめ上げたことで、「刀伊(とい)」の撃退に成功しています。歴史上の大事件であり、藤原隆家さんの大手柄なのですが……日本史の授業ではあまり触れられませんし、世の中的には元寇よりもマイナーな事件で、知っている人は稀でしょう。

つまり何が言いたいかといえば、「刀伊の入寇」の前後にも大陸からの攻撃は断続的に受けていたわけで、平安時代の朝廷はもちろん、鎌倉幕府が興ってからも、常に北九州の防衛には力を入れていたわけです。

企画展の展示パネルから

で……、この「刀伊(とい)」というのが何者なのか? といえば、中国の満州地方にいた騎馬民族・女真族だったと言われています。女真族……強そうな印象があるのですが、実際に強かったようで、同じ女真族が、この当時の中華を支配していた「宋」を、1126年に滅ぼしてしまいます。刀伊の入寇から約100年後のことですね。同時に女真族は「金」という国を中華に建てます。そして「宋」の残党と言っては規模が大きいのですが、「宋」が中華北部から押し出されて、いわゆる「南宋」となります。

その後もおそらく金と南宋はずーっと戦っていたでしょうね。それからまた約110年後の1234年に、金はモンゴル族……後のげんに敗れてしまいます。そして新興勢力の「げん」は、その勢いのまま……といっても45年後の1279年に南宋を滅ぼして中華統一を果たしたわけです。

ということで、何が書きたかったといえば、國學院大學博物館の特別展『海底に眠るモンゴル襲来〜水中考古学の世界〜』は、観ていると色々と歴史が立体化して面白かったですよ……ということです。

同館では、同じテーマの第二弾もあるそうです。その時に、また訪ねてしまうかもしれません。

ということで今回のnoteは以上です。

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