神風が撃破した「元寇船」が海底で見つかったって知っていました? @國學院大學博物館
國學院大學博物館では、1274年と1281年に中国と韓国の連合軍が対馬〜壱岐〜博多に来襲した、「元寇」をテーマとした特別展『海底に眠るモンゴル襲来〜水中考古学の世界〜』を開催しています。半年くらい前から楽しみにしていた企画展だったので、さっそく行ってきました。
※なお、誤字脱字が多いと思いますが、そのうち直しますのでご了承ください。
■見つかった「元の沈没船」
鎌倉時代の「元寇」の「文永の役(1274年)」と「弘安の役(1281年)」といえば、高校あたりの日本史の授業に出てきますよね。この時、日本は2度にわたって、現代の国名を使えば、中国と韓国の連合軍に襲撃されたのですが、その2度とも撃退しました。授業で先生は、曰く「神風が吹いて、大打撃を受けた元軍は撤退していった」と説明していたし、もう少し詳しく「日蓮上人はモンゴル襲来を予言していた」とも言っていたかもしれません。
そして教科書には、元寇の項目とともに、三の丸尚蔵館に所蔵されている国宝《蒙古襲来絵詞》の写真が載っていたはずです。竹崎季長(すえなが)という武将が、「俺は頑張って蒙古のやつらを追っ払った! だから恩賞をくれ!」と主張するために、この絵詞を作らせたと言われていますよね。
でも、《蒙古襲来絵詞》の写真も、教科書にはものすごく小さく、しかもわたしの頃にはモノクロでしか載っていませんでしたから、いまいち「リアル」な感じがしなかったんですよね。「本当に元の大軍が海をわざわざ海を渡って攻めてきたのかな?」とか、歴史教科が好きでなければ……「元寇なんて、習ったっけ?」という人も少なくないはずです。
それがですね……近年、その中国と韓国の連合軍が乗ってきた「元軍の軍船」が九州の長崎県松浦市の海の中から、なんと「発掘」されているんです。しかも1隻ではないんですよ……2隻が見つかったほか、3隻めではないかと言われているものが海中で見つかっています。←そう書きながら、念の為にもう一度調べてみたら、これが3隻目だということが確実視されたと、先週(2024/10/12)、報道発表されていました。
↓ 2024年10月12日RKB毎日放送ニュース 『”元寇の船”3隻目を確認「まるでつい最近沈んだかのよう」な木材の色や形 短刀や指輪状の金属製品も』
さらに2年前には、元寇船のいかりを引き揚げています。
↓ 2022年10月03日RKB毎日放送ニュース『モンゴル軍襲来“元寇船”の碇(いかり)、741年ぶりに長崎沖で引き揚げ~視界不良の泥中』
いかりを引き揚げたのは2年前ですが、海中の捜査が開始されたのは1980年(昭和55年)のことで、船の本体を発見したのは2011年(平成23年)10月のことです。沈没船が発見された海域は、2012年に海底遺跡としては初めての国史跡「鷹島神崎遺跡」に指定されます。さらに2015年には、2隻目の沈没船が同じ海域で発見されます。
↓ 2012年10月10日KYODO NEWS『元寇沈没船は二重の船底 長崎・鷹島の海底遺跡」
そして、なんで國學院大學博物館で、特別展『海底に眠るモンゴル襲来〜水中考古学の世界〜』が開催されているかと言えば、上記の遺跡調査を主導されているのが、同大の出身で教授である池田榮史(いけだ よしふみ)さんだから……ということになるのでしょう(2021年3月までは琉球大学の教授として遺跡調査をされていました)。
■元の沈没船とともに見つかった様々な遺物
元寇の沈没船が発見されたのは、長崎県松浦市鷹島町神崎という大きくない港……湾の中です。
第一次の元寇「文永の役」では、韓国の合浦を出た元軍……中韓連合軍は、まず対馬と壱岐を落として、そこから鷹島を経由して博多湾に向かったようです。そのまま博多近辺に上陸するも、鎌倉幕府の軍勢に叩きのめされて、橋頭堡を築くことができませんでした。上陸した兵も船に戻り、態勢を立て直すためだったのか壱岐や鷹島に引き揚げていったようです。その撤収先の壱岐や鷹島で、暴風にさらされて、かなりの数の軍船が沈んだといいます。
第二次の元寇「弘安の役」の元軍は、第一次元寇の何倍もの兵力を動員しました。ただし元は、朝鮮半島経由の東路軍(元に屈した高麗の兵が主力)と、中国本土からの江南軍(元に屈した南宋の兵が主力)とに分けて派兵。結局、中国本土からの船は戦闘に間に合わず、東路軍のみが博多へ侵攻しますが、鎌倉幕府の応戦により一時撤退を決め、壱岐や対馬に戻ります。本体である江南軍を待つことにしたようです。その後、江南軍が鷹島を含む伊万里湾に辿り着いた時に、今度は台風により多数の船が被害を受けます。被害は江南軍にも及んでいたようで、両軍ともに博多に再侵攻することなく、撤収したそうです。
文永と弘安の両戦役で、元軍の船は、鷹島でも被害を受けます。そのため鷹島には以前から、沈没船から漏れ出た遺品が海底にごろごろと転がっていたのが確認できたそうです。
鷹島は、入り組んだ湾の中にあり、海賊船などが潜むのにほど良さそうな場所にありますね。
2003年度の調査報告書によれば、平成14年7月から12月までの発掘調査で、大型船の隔壁板、外板、「王百戸」銘墨書青磁碗、漆椀等の文字資料、鉄、矢来、剣、「てつはう」、鎧の漆塗小札、赤漆櫛、銅製鈴、帯金具、硯、玉製ミニチュア、炭化穀物、木炭、中国陶磁器、各種の銭などが出土したとしています。
てつはうについては、前述の調査報告書の表紙に、海底で発見した時の状況写真が使われています↑。実際には砂を吸い込みながら、発掘していったそうで、最初からこの写真のような状況でゴロンと転がっていたものではなさそうです。それでも、こんなにしっかりとした球状で発見されたなんて……なんだか感動モノですね。
■発見された元軍の沈没船
鷹島に沈没していた2隻の沈没船のうち、どちらを参考にして作ったのかは分かりませんが(どこかに書いてあったのでしょうが……)、元の軍船の模型も展示されていました。第一次元寇である文永の役では、様々なタイプの舟があったでしょうけど、総数は約900隻とも言われています(兵数は2万5千人)。
歴史書は、たいてい大げさに記すものですから、実際には仮に半数だとしても450隻ですからね……すごい数なのは間違いありません。また7年後の第二次元寇…弘安の役では、さらに数倍の兵力で侵攻しようとしたようなので、「ほんとにそんな大軍船団で攻撃してきたのか?」と疑いたくなりまうけれど……まぁ圧倒的な兵数で侵攻しようとしたのは間違いないでしょう。
■企画展観覧後……
今まで遠くの昔に起こった出来事……という感じでしかなかった「元寇」が、今回の展示を観たことで、かなりリアルな雰囲気を帯びてきました。
それと同時に、どうして元は日本に攻めてきたんだろうか? という思いも深まります。こんなちっちゃい島国を占領して、元は何を得たかったんでしょうか? 単に、今の中共と同じように、独裁者の権威を高めるために他国を平服させたいと考えていたのでしょうか?
ということで、鎌倉時代の主に中国の宋朝との交易内容を調べてみると……金、銀、硫黄、水銀、真珠などが重要な輸出品だったようです。もちろん高校の時に習った刀剣や漆器も含まれていたことでしょう。これらを元がほしかった……というのはありえることです。
特に硫黄は、皮膚病や寄生虫の駆除のほかに、火薬製造にも使っていたようです。前述した「てつはう」というのがどのくらい戦闘に使われていたのか分かりませんが、火薬の使い方は砲弾以外にもありますからね。
刀剣については、高校の日本史の授業でも、長らく日本の主要な輸出品として挙げられていました。でも不思議ですよね? 日本製の刀剣が中国から出土したとか博物館に展示されているといった話も聞きません(そもそも中国の情報を追っていないから……というのもあるでしょうけど)。となると、どこかのサイトで読んだのですが、中国は、刀剣としてではなく精錬された鉄として……素材として日本から輸入していたのではないか? ということです。わたしはこの説を支持しています。
こうした品々の主な輸出先は、元ではなく当時の交易国だった宋(そう)……元寇当時は、元の敵対国である南宋だったんですね。敵対国である宋を支援する日本=鎌倉幕府を、なんとか手懐けたい……日本と宋の交易を遮断したい……そんな目的が元にはあったようです。そして元は、先に屈服させた韓国=高麗から、日本へ使者を送らせるわけです。
そこで高麗国王は「はからずも」……いやいやですけれども、使者を送ることにしました……というのが韓国の史書『高麗史』に記されています。その『高麗史』も、展示されていました。
上の画像データを使って、文字を認識させたものを、そのままChatGTPに流し込んで訳してみました。高麗王が「はからずも」元と日本との仲立ちをサせられて、困っている様子が読み取れますね。
その高麗王が日本に送ってきた書の内容を記している、おそらく日本側の書が『大蒙古国皇帝奉書(蒙古国牒状)』です。これは『八幡愚童訓』からの引用なのか、同書の中に記されている部分なのか分かりませんが……。
いまいち訳が良くなかったというか、実際の意味と合っていなかったので、ここで記すのはやめておきます。上記の読み取った漢字が不完全だったのかもしれません。いずれにしても、1266年にフビライ・ハンから、下記のような内容の文書が送られてきました。
まずは「大蒙古国皇帝、書を日本国王に奉る」から始まり、モンゴル帝国の皇帝として日本国王に書簡を送ることを宣言しています。続いて「小国の君主でも、隣接する国々と友好関係を築くべきだ」と外交関係の重要性を述べています。そして、「モンゴルの祖先が天命を受けて広大な領土を支配し、多くの国々がモンゴルの威光を恐れ、徳を慕っている」とモンゴル帝国の威光を主張しています。実際に、日本との友好関係が続いている高麗を例に挙げ「高麗をモンゴルの東の藩属国として扱い、元は高麗との良好な関係を築いている」……だから日本も安心しろ、ということでしょうか。さらに「日本が過去に中国と交流があったにもかかわらず、モンゴル帝国とは未だ外交関係がないことを指摘し、今後の友好関係構築を望む」と、フビライ・ハンからの酷暑にはつづられていたそうです。
わたしは読んでいませんが、下記の論文に詳細が記されていそうです。いつか読むかもしれないので、ここに残しておきます。
九州大学大学院講師・舩田善之 著『日本宛外交文書からみた大モンゴル国の文書形式の 展開』
ちなみに中国語のWikipediaにも、フビライ・ハンが送ったという奉書の、日本側の資料が貼り付けられています(日本語版には同資料は無し)。だいたい上に記したとおりのことが記されているようです。
書かれているのは、以下のとおりです。これもWikipedia(wikisource)に記されているものを転載しました。
その後、どうなったのかについては……
1266年にフビライ・ハンから送られてきた国書を無視した日本は、北九州の防衛態勢を強化しました。さらに1299年に元が派遣した禅僧一山一寧を、スパイの疑いで拘束し、伊豆修善寺に幽閉します……と言っても、高僧としておもてなししていたようで、この人の水墨画などが東京国立博物館(トーハク)にもいくつか収蔵されています。
さらに、フビライ・ハンからの国書を公式には拒否した日本ですが、実際には日元間の貿易も行なわれていましたし、日本からも主に僧侶が元朝の中国に渡っています。断交したわけではなかったということです。
とはいえ、フビライ・ハンから国書が送られてきてから8年後の1274年に、とうとう元軍が攻めてきました。8年間、準備期間があったわけで、その間に日本の僧も元に渡っていたようだし、元はもちろん高麗とも交易があったのですから「とうとう元が攻めてくる」といった情報は、日本側にも逐一伝わっていたことでしょう。
企画展では、このあたりの詳細は展開していませんが、それでも何冊かの歴史書を展示し、経緯を体感できるようにしています。
とにもかくにも第一次の元寇である「文永の役」が1281年に始まり、そして日本が元軍の撃退に成功します。まぁ主力は、いやいや侵攻させられている朝鮮半島の高麗の人たちですから、士気も高くはなかったはずです。高麗にとっての日本は、主要な交易相手でもあったでしょうから、高麗政府からすれば、日本に悪い印象はできるだけ与えたくない……という思惑もあったでしょう。
さて、第一次元寇である「文永の役」が散々に終わったとはいえ、元からすれば、主力は朝鮮半島の高麗人たちだったから、痛くも痒くもない……といった感じだったかもしれません。
そこで第二次元寇である「弘安の役(1281年)」が、7年後に始まります。文永の役(1274年)当時、元は南宋を滅ぼすために戦争状態でした。しかし、元は1279年に南宋を滅ぼします。既に朝鮮半島の高麗は屈服していますし、中国の南に逃げていた南宋も長い戦いの後に滅ぼしました。あと屈服しないのは、日本だけ……という状況になりました。また日本で、長い戦国時代が終わった後に、余剰戦力の処理のために豊臣秀吉が大陸へ攻め込んだように、元もまた余剰戦力を持て余していたかもしれません。
とにもかくにも、1281年の第二次元寇「弘安の役」では、高麗からの「東路軍(4万人と900隻)」だけでなく、旧南宋の兵力をまとめた「江南軍(10万人と3,500隻)」も編成。かつての数倍の兵力を使って、日本の博多へと向かわせることにしました。
まぁでも「弘安の役」もまた、けっこう雑な戦略を立てるし、現地指揮官も優秀ではなかったようにも思えます。当初、朝鮮半島発の東路軍と大陸発の江南軍は、対馬や壱岐で合流してから博多へ攻め込む計画でした。それがなんと、江南軍の出発が1カ月も遅れた上に、江南軍が待ちきれずに単独で博多へ攻め込んでしまいます。準備万端だったかは分かりませんが、日本の幕府軍は準備していましたので、東路軍を殲滅します。第一次元寇の時と同様に、船に逃げ東路軍は、そのまま対馬や壱岐、それに鷹島などに一旦退きました。その後、大陸発の江南軍が到着。今度こそ博多に上陸して太宰府を攻め落とすぞ! という時に……今度は台風が元の両軍を襲います。第一次元寇の時には暴風だったそうですが、第二次元寇の際には台風だったそうです。
今でもそうですが、台風って、あまり中国大陸や朝鮮半島へ向かいませんよね。もしかすると彼らは台風の猛威を経験していなかったのか、それとも台風は10年20年に一度くらいしか来ないものと思っていたのかもしれません。そして、先に挙げた船も両軍あわせて4,400隻ですからね……それらを対馬と壱岐、それに鷹島などの伊万里湾に「浮かべていた」としたら、現在の最新の船であっても座礁などが免れないだろうなと思うわけです。
ということで、第二次元寇では、どうやら本体とも言える江南軍は、戦闘に参加すらしなかったようで、そのまま両軍とも引き上げることになりました。
撤収する様子は、中国の公式の歴史書『元史』にも記されています……ということで企画展にも展示されていました。同じ中国人が編んだ公式の歴史書に、ずいぶんと無様な様子が記されているなぁとも思いますが……これは、あくまでも元を倒した後の明朝に編纂されたものであることに留意が必要です。過去の王朝を否定し、その歴史書ではできるだけ貶しまくる……というのが中華や朝鮮半島の歴史だと言えるでしょう。そうであればこそ現在の皇帝の正当性が主張できるようです。
近年では、中国の文化大革命がそれであり、韓国が今でも過去の政府をケチョンケチョンに否定しまくり、日本との約束事まで否定して守らない……というのも、そうした慣習から来ているような気がします。
そうして中国や韓国の政権が移り変わるごとに、焚書などが行なわれるため、日本には大陸から、美術品を含む多くの人材や文物が渡ってきている……というのは、最近、中国人も認めているようだと思い始めました(韓国人は認めていませんけどね)。ということで、太平洋戦争の戦没者を靖国神社に祀っている理由を、中韓人が理解できないのもやむなしかな……という気もします。
まぁそれはそれとして、第二次元寇「弘安の役」では、模型にあるような元軍の艦船が、伊万里湾にいるところを台風に襲われました。解説には「長崎・佐賀県境に東西約十三km、南北約八kmの規模を有する伊万里湾があります。伊万里湾は閉鎖性が高い内湾のため、風や潮流の影響を受け難いことから、現在でも対馬海峡を通航する船舶にとって天候が悪化した際の緊急避難場所となっています」とありますが、元軍は甚大な被害を免れることができませんでした。
解説は続けて記します。「伊万里湾内では漁業者の網に中国陶磁器が入ることがあり、湾口を塞ぐ位置にある鷹島にはモンゴル襲来に関する多くの言い伝えが残されています。このことから伊万里湾は長く『弘安の役』の舞台であったとされ、一九八〇年以降モンゴル襲来の実態解明を目指した水中考古学的調査研究の対象地となりました」と……。第一次元寇の「文永の役」の舞台にはなっていない……と考えられている理由は分かりませんが……とにかく地元では、考古調査が始まる前から中国由来の陶磁器が網にかかることが多かったようです ← だからですね……。もしかすると朝鮮半島由来の遺品は、見つかっていないか、数が少ないため「これは弘安の役の江南軍のものだろう」と推測されているのかもしれません。
■大河ドラマ『光る君へ』と無理やり繋げる、元寇までの簡単な経緯
大河ドラマ『光る君へ』で、最近の回では藤原伊周が完全に失脚しました。その弟の藤原隆家は、藤原道長への忠誠をドラマの中では誓っていますよね。この乱暴者として知られていた藤原隆家さん……日本史上でとんでもない功績を挙げた人でもあるんです。
今週回はまだ観ていませんが、このあと、藤原隆家さんが太宰府へ赴任することになります。その藤原隆家さんの任期中に……なんと、元寇の予行演習とも言える「刀伊の入寇(といのにゅうこう)」という事件が勃発します。1019年のことです。「刀伊(とい)」という人たちに北九州が攻め込まれ、その時に日本の大将だったのが藤原隆家さんということです。この時は、藤原隆家さんが地元・北部九州の諸将をまとめ上げたことで、「刀伊(とい)」の撃退に成功しています。歴史上の大事件であり、藤原隆家さんの大手柄なのですが……日本史の授業ではあまり触れられませんし、世の中的には元寇よりもマイナーな事件で、知っている人は稀でしょう。
つまり何が言いたいかといえば、「刀伊の入寇」の前後にも大陸からの攻撃は断続的に受けていたわけで、平安時代の朝廷はもちろん、鎌倉幕府が興ってからも、常に北九州の防衛には力を入れていたわけです。
で……、この「刀伊(とい)」というのが何者なのか? といえば、中国の満州地方にいた騎馬民族・女真族だったと言われています。女真族……強そうな印象があるのですが、実際に強かったようで、同じ女真族が、この当時の中華を支配していた「宋」を、1126年に滅ぼしてしまいます。刀伊の入寇から約100年後のことですね。同時に女真族は「金」という国を中華に建てます。そして「宋」の残党と言っては規模が大きいのですが、「宋」が中華北部から押し出されて、いわゆる「南宋」となります。
その後もおそらく金と南宋はずーっと戦っていたでしょうね。それからまた約110年後の1234年に、金はモンゴル族……後の元に敗れてしまいます。そして新興勢力の「元」は、その勢いのまま……といっても45年後の1279年に南宋を滅ぼして中華統一を果たしたわけです。
ということで、何が書きたかったといえば、國學院大學博物館の特別展『海底に眠るモンゴル襲来〜水中考古学の世界〜』は、観ていると色々と歴史が立体化して面白かったですよ……ということです。
同館では、同じテーマの第二弾もあるそうです。その時に、また訪ねてしまうかもしれません。
ということで今回のnoteは以上です。