三大装飾経の一つ《久能寺経》の、国宝ではない方の一巻がありました……東京国立博物館
昨日の午後は、子どもが友だちと待ち合わせるために公園へ行くのに、くっついていきました。サッカーボールでパス練習をしていると、友だちが2人来て「もっと広い公園へ行こう!」となったので、わたしは「17時には帰りなよ」と言い残して離れました。
いつもの週末のように、東京国立博物館(トーハク)へ行こうかどうか迷っていました。何か観たいものがあったかな? と……。そんなふうに迷いつつ、「迷うなら行こうかな」と思ったところで思い出しました……12月5日からは、トーハクの本館2階がクリスマスまで閉室しているんだった! と。
ホームページには上記のように記されているんですけど……2行目を読むと、「本館2階」の全てが閉じられてしまうようにも思えるのですが、1行目と3行目を読むと、期間を区切りながら順繰りに展示環境の整備(工事?)が行なわれるようにも思えます。どういうことなんだろう……まぁ、行ってみればわかることですね。(本館2階の刀剣甲冑の部屋の展示ケースや照明がリニューアルされるのではないかと楽しみです!)
それで昨日は、見過ごしていた展示品がないかと、パトロールのように本館2階を中心に巡ってみることにしました。閉館まで残り2時間という、15時過ぎに行ったのですが、週末のトーハクの本館は、とても混んでいます。それでも本館2階から法隆寺宝物館へ行って、最後に東洋館へも行ったので、かなり駆け足というか、ほとんど散歩しに行ったという感じでした。
■離れ離れになっている久能寺経
玄関を入り、本館1階の仏像(彫像)の部屋を抜けて階段を上ると、お経のコーナーがあります。それほど興味があるわけでもないのですが、いつものごとく、お経をじっくりと見る人もいないので、少し見てみることにしました。すると《法華経 安楽行品(あんらくぎょうほん)》というのが展示されています。よく見ると、解説パネルには《法華経 安楽行品》という名称とともに(久能寺経)と記されています。
あれ? 久能寺経って国宝にあったよなぁ……でもこれは重要文化財……
いま調べてみたのですが、この久能寺経というのは、『法華経』28巻に加えて、開経(かいきょう)……プロローグの『無量義経(むりょうぎきょう)』と、結経(けちきょう)……エピローグの『観普賢経(かんふげんきょう)』を合わせて、全30巻もあったそうです。静岡県の久能寺(現:鉄舟寺)に伝来したことから、《久能寺経》と通称されています。
この久能寺ですが、その名前からも分かる通り、静岡県の久能山と縁の深い寺院です。現在は鉄舟寺と称していますが、もとは久能山の山頂に本堂を構えていました。平安時代から鎌倉時代には大寺院だったと伝わっているそうなので、この頃に、今では《久能寺経》と呼ばれる立派な《法華経》が納められたのでしょう。
ただし久能寺は、戦国時代に入ると厳しい時代になります。今川氏が弱体した後に、武田信玄が同寺のあった久能山を占領し、城郭を築きました。そして久能寺は、現在の静岡県静岡市清水区村松に移転させられてしまいます。戦国時代が終わると……すぐに徳川家康が亡くなりましたので、久能山は、そのまま家康の墓地となり、東照宮が建てられましたので、久能寺は久能山に戻ることができなかったのでしょう。
それでも江戸時代には200石余りを与えられて、それなりに大事にされたようですが、幕末からは衰退。明治になると住職がいない無住寺となり、荒廃していきます。そんな由緒正しい寺が荒廃していると聞いたからなのか、旧幕臣の山岡鉄舟が、臨済宗の今川貞山を迎えて……って言っても、おそらく2人は仲良しだったのでしょう……再興したのが現在の補陀落山の鉄舟寺(鉄舟禅寺)です。
おもしろいですねw 元は久能寺としていた寺が、武田信玄に移された場所が、静岡市清水区です。その“清水”と言えば清水エスパルスもありますが、山岡鉄舟と一緒に語るのなら、思い出すべきは清水の次郎長でしょう。
48歳の山岡鉄舟は、久能寺を再興するために募金活動を熱心に行ないました。そして既に有名人だった山岡鉄舟は、多くの書をしたためて売っていたようで、それを清水の次郎長に与えたり……売らせていた?……したようです。(「山岡鉄舟 今川貞山」でググると、色んな方が書いたブログが出てきます)
そして一癖も二癖もあった山岡鉄舟に迎えられた坊さんが……わたしは存じ上げませんが、戦国武将の今川氏の流れなのか、全く関係ないのか分かりませんが……今川の貞山さんです。三の丸尚蔵館には写真も残っているほどの方……当時の著名人です(臨済宗の妙心寺派の管長を務めています)。この方が並の人であるはずもなくw これまたおもしろい人物だったんだろうなと推測するわけです。
静岡の臨済寺の住職さんとして知られていたようで、今川貞山と号して、諱は宗恒、室号は空華室で、明治38年7月20日に80歳で亡くなっています。
あ……すっかり《法華経 安楽行品(久能寺経)》の話から逸れてしまいました。
まぁでも、戦国時代に武田信玄に占領&移転させられた時なのか、または幕末に荒廃した時なのか、はたまた歴代の中に放蕩住職が現れて、売っぱらってしまっただけなのかは分かりませんが、全30巻あった《法華経》は、散逸してしまいました。
そして現存……現在確認できるのは全30巻のうちの28巻。一時は無住の廃寺となったにもかかわらず、久能寺……後の鉄舟寺には19巻(国宝)が残っているのですから驚きです。明治期に廃寺となっていた頃には、お経はどう保管されていたんでしょうか? そして他にトーハクが3巻(重文)、五島美術館が2巻(重文)、そのほかの国宝指定されている4巻を、神戸市東灘区の個人の方が所蔵されているそうです。
先週までの特別展『やまと絵』で展示されていたのは、この神戸市の個人蔵のもので、同時期にトーハク本館2階に展示されていたのが、離れ離れになっていた……兄弟的な……一巻ということになります。
解説パネルには以下のように記されていました。
ちなみに巻末に記されている待賢門院は、藤原璋子さんとして一般に知られている方。第74代天皇・鳥羽天皇の皇后(中宮)。後白河天皇=法皇のお母さん。
と……思ったのですが、よく見てみると「待賢門院女房中納言殿」とありますね。となると、これを書いたのは待賢門院=藤原璋子さんではなく、その女房(仕えた人)の中納言の局なのでしょうか……。
そんなことを調べていたら、素敵な文章を見つけたのでご紹介しておきます。
■装飾法華経 巻第六
こちらも平安時代に作られた《装飾法華経》。重要文化財にも指定されていませんが、とても立派な作りです。それにしても法華経って本当に人気の経典だったのだなぁと、今さらながら感じますね。
この一文字一文字が丁寧に記されているのと、その装飾の技巧も合わせて見ると、途方もないコストを掛けて作られたはずです。
同じ「装飾納経」でも、同時代に作られた《平家納経》とは、豪華さが異なります。と言っても、《平家納経》の豪華さは、わたしにも分かりやすい「やまと絵」が描かれていたり、金ピカだったりするものなので、本当は渋い雰囲気の《装飾法華経》の方が、コスト的には豪華だったと言われたら、それはそれで「ほほぉ…そういうものですか」と思ってしまうでしょう。
「衆生(しゅじょう)」という文字が、眼に入って離れなかったので、忘れないように撮っておきました。どんな意味だろう? と調べてみると、仏教用語で「生きとし生けるもの」といった感じのようです。ふぅ〜ん…。
■紺紙金字法華経 巻第二
撮影禁止だった法華経の一巻をはさんで隣にあったのが《紺紙金字法華経 巻第二》です。こちらは作品名通りに紺の地色の紙に、金色の線(金泥)で仏像や法華経と思われる文字列が記されています。鎌倉時代の作なので、まだこの頃も法華経の人気は続いていたのですね。
キラッキラの金色の線で、仏像たちが描かれています。いやぁ……こんなにも鮮やかな金の輝きが残っているものなんだなぁと感心してしまいます。
そして仏さんの中心にいる方が、ちょっとサザエさん風の髪型なのもですが、手をパッと開いているのもおもしろいですね。これは印とは言いませんよね? 「どうぞ〜!」とか「いらっしゃ〜い!」とかを表しているようにも見えます。←そんなことあるかw?
上の解説を読んでも「なんのこっちゃ?」となるので、気になる方は、下のブログが分かりやすくておすすめです。
今年は、いくつ見たのか覚えていないほどの法華経を見ました。というのも、トーハクの通称「国宝室」の展示に、法華経が多かったんですよね(もちろん同室の展示品はすべて国宝)。それでも何が書かれているのか、未だにさっぱり分かりません。もう少ししたら、わたしも法華経に興味を抱くお年ごろになるかもしれません。そうしたら詳細を調べたいと思います。
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