群像を生き生きと描く、前田青邨の出世作《神輿振(みこしぶり)》……東京国立博物館
目まぐるしく展示替えされる東京国立博物館(トーハク)の総合文化展……いわゆる常設展……は、月に数回通っていても見飽きることがないどころか、見逃してしまう展示品も少なくないです。
週末の空いている時間帯……17時以降に行って、これだけは見たい! と狙いをすまして観てきたのが、前田青邨さんの《神輿振(みこしぶり) A-10555》です。これまで何度か前田青邨さんの作品を(トーハクだけで)観てきましたが、この絵巻もすばらしいものでした。
大正元年(1912)に描かれた今作は、解説パネルによれば「第6回文展に出品され3等を受賞し、前田青邨の出世作となった作品」なのだそうです。
「神輿振(みこしぶり)」というタイトルの割に、3段に分けられている前半部には、神輿は見えません。描かれているのは、橋の上を通る神輿を見送る人たちの後ろ姿。神輿と言えば、わっしょい! わっしょい! と歓声が上がっていていそうですが、群衆の後ろ姿を見ると、そうした目出度い雰囲気でもなく、なにやら不安げというような雰囲気にも見えます。
解説によれば、これは1177年に、延暦寺の僧兵が神輿を奉じて京の街に乱入した事件を描いたものだそうです。1177年と言えば、平安時代の後半ですね。そろそろ閉幕する特別展「法然と極楽浄土」との関連で言えば、法然が比叡山の延暦寺を出たのが1175年のこと(法然43歳頃)……同年を浄土宗開宗の年としています。法然さん関連の文章を読んでいると、比叡山は腐りきっているといった“ような”ことを思っていたようです。
『平家物語』では、もっと時代を遡った、1053年〜1129年に生きた白河院が、「加茂川の水、双六の賽、山法師これぞ我心にかなはぬもの」と語ったとしています。代々の朝廷からの尊崇が篤かった比叡山延暦寺は、財政的に豊かで、完全に調子に乗っていたんでしょうね。
比叡山自体が、(おそらく比叡山だけでなく奈良などの既存宗教も)僧兵を備えていた……さらに自分たちに気に食わないことが朝廷で決定されると、こうして神輿を担いで威力で抗議していたことなどに、うんざりしていたのかもしれません。
そうして歴史的に見ていくと、橋の上を渡り歩く僧侶たちの表情が、ふてぶてしいもののように感じられます。
そして次の段では、神輿を担ぐ僧侶たちの一団が、京の街中を練り歩いている様子が描かれています。
担いでいるのは、比叡山のふもとに鎮座する日吉山王(現:日吉大社)の神輿です。
神輿の前を歩く、他と異なる肌色の僧服を着た僧は、僧兵のリーダーをイメージしたものでしょうか。僧服の中から鎧がチラッと見えていますね。
金井紫雲さん著の『東洋画題綜覧』には経緯を以下のように記しています。
こうして読むと、比叡山が一方的に悪いようにも思えますが、腐っていたのは比叡山だけではなく、当時の朝廷も同じだったことでしょう。1160年に平治の乱がおこり、その後は平清盛をはじめとする平家が権勢をふるい始めていた時期です。朝廷が腐敗していたというよりも、源平の武家勢力が躍進していた時期で、朝廷内の権力闘争が複雑化して混乱していた時期……という方がふさわしいかもしれません。
とにかくそういう時代を描いた前田青邨の《神輿振》には、おおぜいの人たちが描かれていますが、その一人一人の表情が豊かです。神輿=僧兵が通るのを京の人たちは、絵に描かれているように、半ば呆れるように眺めていたのだろうとも思えます。
子どもたちは、屋根に上って神輿振を見物しているのか、それとも騒乱に巻き込まれないよう避難しているのでしょうか。
一番右側の子供の髪型は、ピンとアンテナのように細く立っていますが、平家物語絵巻などに、こうした髪型が描かれているんでしょうかね。それともこれは前田青邨が生きていた時代の子供たちの髪型なのでしょうか。
さらに絵巻を左へと進んでいくと、通りに多くの大人たちが、こちらはまさに“見物”しています。心配そうに見ている人、興味深く眺めている人、馬鹿にしたように冷笑している人と、様々な表情が描かれています。
家人を連れた武士のような人も描かれていますが、こちらは何かを収めにやってきたというよりも、一人では手の施しようもないといった雰囲気です。
絵巻の左端を駆けているのは、盗賊でしょうか。
いやぁ、良いものを観せていただきました……という感じです。前田青邨さん、やっぱり分かりやすいし、おもしろいし、色が鮮やかだし、わたしはとても好きです。
<過去の前田青邨関連note>
前田青邨の画像コレクションが増えて、けっこう嬉しいです。