藤原道長が御岳詣で登った吉野・金峯山とは……大河ドラマ『光る君へ』関連note
先日のnoteで、東京国立博物館(トーハク)に展示されている国宝《線刻蔵王権現像》を紹介しました。
それで思い出したのですが、同館では、2024年の5月〜7月にかけて『吉野と熊野―山岳霊場の遺宝―』という特集展があったんです。その時には、noteを書くほど興味を抱けなかったのか、単に時間がなかったのか覚えていませんが、noteしませんでした(おそらく前者の理由)。
今回は「国宝《線刻蔵王権現像》が撮影可能になりました!」記念として、『吉野と熊野―山岳霊場の遺宝―』で撮っておいた写真や、チラシなどを振り返り、主に金峰山や大峯山が含まれる吉野や、そこで活発に行なわれた修験道について考えていきたいと思います。
↑ ……ここまでを書いたのが、『神護寺展』のnoteをダラダラと書いていた時なので、もう数週間…1カ月前くらいが経つでしょうか。
その『神護寺展』のnoteを書きながら、最澄さんや空海さんのことを調べ……そこから金峰山や大峯山のことを考えていったら……先週のNHK『光る君へ(34回)目覚め』のラストで、藤原道長さんが「最初で最後の御嶽詣である」と言い出していて「え? あ……でもそうか、たしかに道長さんは大峯山に行っているんだった」と思った次第です。
以下の内容は、間違いだらけかもしれませんし、諸説あるものばかりな上に、地域によって通説が異なることばかりを書いていきます。きちんと把握しないまま書き出していますが、もし明らかな誤りがあれば、指摘してもらえればと思います。
■金峰山と大峯山は、吉野にあります
まず未知の寺社を知るためには、地図でどこにあるかを確認する必要があります……って、本当にそんな必要があるのか知りませんけどね。どうも、どんな場所にあるのかが気になってしまうタチなんです。歴史と地理は不可離ですしね。
それで、特集『吉野と熊野―山岳霊場の遺宝―』の時に壁に掲げられていた、金峰山や大峯山、それに熊野三山をGoogleEarthに落とし込んでみました。さらに山岳霊場と関わりの深い、平城京と平安京……そして空海さんの高野山・金剛峯寺。最澄さんの比叡山・延暦寺も加えるべきですが、まぁ平安京とほぼ同じ場所だし、地図がごちゃごちゃするので省略しました。
特別な意味があるのかないのか分かりませんが……こうしてみると平安京〜平城京〜金峯山寺〜熊野の那智大社が南北にほぼ一直線に並んでいますね。そして関東育ちだからだと思うのですが、この金峯山寺や大峯山寺などがあるあたりを「吉野」と呼んだり「吉野山」、「金峯山(きんぷせん)」や「大峯山(おおみねさん)」と、いろんな言い方をして、呼んだり(書いたり)しているようだ…ということを知りませんでした。「吉野」と聞いて、金峯山や大峯山などは、これを書いている今まで、思い浮かびませんでした。どの呼び方でも良かった……ということです。
もともとこのあたりが、宗教色を帯びてくるのは、飛鳥時代の頃からで、平安時代に隆盛を誇ったようです。
飛鳥時代に何があったかと言えば、6世紀の半ばに仏教が伝来しました。それから80年後くらいの634年に、ほぼ伝説上の人……役小角(えんの おづぬ)という人が生まれます(もちろん諸説あり)。役小角……役行者(えんのぎょうじゃ)は、このあたりの山々を歩き回って修行をしていたそうです。
そして、役小角さんが今の大峯山寺(おおみねさんじ)がある場所で、蔵王権現を“感得”または“示現”……または岩の中から涌出した……と伝承されています。言葉の意味を考えると、「修行中の役小角の目の前に蔵王権現が姿を表し(示現)、悟りや真理を会得したのか、霊験や霊力を感じ取った(感得)」のでしょう。
そして、地元の言い伝えによれば、役小角は目の前に現れた蔵王権現の姿を、ヤマザクラの木に刻んで祀ったのだそうです。その祀った場所が、現在の大峯山寺(おおみねさんじ)です。
また、役小角が蔵王権現をヤマザクラの木に刻んだことから、後に修験道が隆盛するに合わせて、ヤマザクラが神聖な木だと言われるようになります。そして平安時代の天皇や貴族が、ご利益に授かるために、吉野の山にこぞってヤマザクラを献上していった……これが、吉野の桜の始まりだと言われています。
その後、役小角のような山岳修行者が増えていったのでしょう。推測するに飛鳥から平安時代は、正式な僧になるにはライセンスが必要でしたが、そうしたライセンスのない違法な僧……私度僧(しどそう)たちが、街中にはいられないので、山のなかで修行したのかもしれません。あの、平安時代前期に修行をしていた空海さんも、そうした山岳修行者の一人だったと言われています。
わたしの勝手な想像だと、古臭いし尊敬できないような奈良の旧仏教における僧たちを、多くの人たちが見限っていたのではないでしょうか。また、仏教由来の末法思想が広がりつつあったことから、既存宗教である仏教に絶望したからかもしれません。
べつに東大寺や興福寺など、朝廷から認められた正式な僧たち、その個々の僧をディスるつもりはありません。でも、時代の変化とともに、彼らの変化が遅すぎただけ……どの時代でも、どんな集団でもおこることが、仏教界にもおきたというだけの話です。会社の中で、40歳後半以上の管理職たちが「老害」と言われて若手に煙たがれる……その若手は「今のままではダメだ。新しいことにチャレンジしなければ!」といった情景と同じことが、奈良後期から平安前期の仏教界にもおこっていたのでしょう。
わたしの想像が続きます……役小角さんが生きた飛鳥の昔から、蔵王権現を祀る山岳修行者たちは、徐々に信者を獲得していきました(←想像です)。信者が増えれば、役小角さんが蔵王権現を感得されたという大峯山(山上の蔵王堂)に行ってみたくなるのが人情というものです。そして現在の吉野から大峯山を目指す人が増える→大峯山に堂宇が建つ→吉野から大峯山への山の中のルートが整備されていく……ということになったでしょう。すると山へ入る前に準備する場所が必要だし、山道を歩けない人にも蔵王権現を感じてほしい……ということで麓に位置する吉野の街に、今で言う金峯山寺なのか金峯神社なのか……「山下の蔵王堂」が建てられた……ということなのでしょう。神社で言えば、山の麓にある本殿と、山の頂上にある奥宮や奥院の関係だった……というのはわたしの予想です。
田中利典さんという金峯山寺の長臈(ちょうろう)が記した文章に下記のようなものがありました。
明治維新後に生まれたわたしたちには、この神と仏が融合しているという、江戸時代以前の宗教感覚を、正確には捉えられない気がします。「寺の中になんで神社があるの?」と疑問に感じる人は多いでしょうし、なんで神道の上野東照宮に仏教スタイルの五重塔があったんだろう? とか、なんで神社の神主さんが般若心経を唱えているの? など、神仏が習合していることを、不思議に感じることが多いです。
とにかく仏教と神道は習合(ミックス)していたわけで、そもそも釈迦が説いていた頃の仏教だって、多分にインドの地元神を採り入れていますし、そこから日本に伝わるまでの中国でも、地元の神様が混じっていったことでしょうし、特に山岳信仰などは顕著だったはず……そのため、今も寺の正式名称は「〇〇山の〇〇寺(〇〇院)」などと付けられています。つまり「山」が重要だったんですよね。
その中で、少し神道寄りで始まったのが、奈良の南方の山々で培われた山岳信仰だったのでしょう。その後に、(伝説上の)役小角を開祖として、また蔵王権現を本尊と祀る信仰は、各地に広がっていく……と同時に平安時代になると仏教僧の空海さんが同地で修行されたり、空海さんや最澄さんが当地の山岳信仰のエッセンスを真言密教や天台密教に採り入れたりするなかで、神道寄りだった山岳信仰が、仏教(密教)へと寄っていったのかもしれません。
平安時代、この吉野の山岳信仰は、天台宗の最澄さんや真言宗の空海さんに影響を与えました。と同時に、これら2宗……特に真言宗から吉野あたりの山岳信仰は影響を受けました。影響を受けたからこそ、それまでは「ちょっと怪しげな宗教」だったものから、「貴族が信仰しても良い宗教」へと洗練されていった……のかもしれません。
とにかく平安時代になると、真言宗の京都・醍醐山の醍醐寺を開いたことでも知られる聖宝さんが、荒廃していた金峯山を894年に再興し、参詣路を整備したり堂を建立したそうです。その後は、900年に宇多天皇が参詣したほか、1007年には藤原道長が登っています。
この寛弘4年(1007年)、藤原道長さんが42歳の時に山上ヶ岳山頂を登る様子が、予告を見た限りでは今週末の大河ドラマ『光る君へ』で描かれます(詳細は後述)。
まさかNHKの大河ドラマに合わせたわけではないでしょうけど、藤原道長さんが、標高1714mの山上ヶ岳(さんじょうがたけ)山頂……現在の大峯山寺まで登った時に埋めた《金峯山経塚出土紺紙金字経》が、今年新たに国宝に指定されたんですよね。
新たに国宝や重要文化財に指定されたものは、毎年の春、トーハクでお披露目会が行なわれるんです。特別企画「令和6年 新指定 国宝・重要文化財」です。全てが揃うわけではありませんが、その《金峯山経塚出土紺紙金字経》は展示されていたため、わたしも見ることができました。「あの藤原道長さんの文字かぁ」と思うと、感慨深いものがありました。
そもそも、藤原道長さんがこの時に埋めた《金峯山経塚出土紺紙金字経》……つまりは書写したお経が残っているっていうのが奇跡ですよね。だって土の中に埋めたんですよ。もちろん金属製の筒の中に、保湿剤としての炭などといっしょに入れたうえで埋めたんですけどね。それが現在まで残っているっていうのが……だって1,000年以上も前に埋めたのに……。
《金峯山経塚出土紺紙金字経》は、金峯神社や金峯山寺などが所蔵しているそうです。そのお経を入れた経筒《藤原道長金銅経筒》も国宝なのですが、吉野の金峯神社が所蔵し、京都国立博物館に寄託されてしまっています。
で……ややこしくないですか? 「金峯山経塚」って書いてあるのに、藤原道長さんが埋めたのは、現在の金峯山寺がある場所ではなく、現在の大峯山寺の本堂がある場所の付近なんです。そして経筒は、大峯山寺でも金峯山寺でもなく金峯神社の所有なんですよね……。ほんとは、この3つの寺社は1つだったはずなのに……明治期の神仏分離政策で、無理やり分離してしまったので、こんなにややこしい話になっているんですよね。
とにもかくにも藤原道長さんが経筒に自分で書写したお経を入れて、現在の金峯山寺の本堂がなかったのか、その場所に土を掘って埋めたんです。藤原道長さんが書いていた『御堂関白記』には、その様子が下記のように記されています。
こうしてお経を埋めた藤原道長さんは京へ帰ります。そして娘が一条天皇との間に子を産み、後に天皇となります。藤原道長さんは、孫天皇を補佐する摂政(せっしょう)となり、「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば」という、盤石の体制を築くわけです。
「道長さまの願いが成就したのは、吉野の蔵王権現さまのおかげ」という噂が拡がり、「みんな蔵王権現さまにお経を備えよう」ということで、こぞって吉野へ行き、経塚を立てていきます。その習慣は、地方へも広がっていくことになります。藤原道長さんは「経塚ブーム」のさきがけ……トレンドリーダーだったんですね。
■金峯山にあるような「経塚」に埋められたものたち
藤原道長さんの話が長くなりました。そろそろ当初考えていた今回の主題に戻ろうと思ったのですが……もう少し経塚について考えたいと思います。トーハクの考古室では、かなり詳しく解説してくれているんですよね……今まであまり興味がなかったんですけどね。
まず前項までに藤原道長さんの話をざっくりとしましたけど、じゃあ具体的に何を埋めたのか? っていう話です。一言で言えば「お経」を埋めました。その「お経」を腐食などから守るために、銅製の「経筒」の中に入れて埋めました。さらに「経筒」を守るために、陶器の壺みたいなものに入れて埋めています。その陶器の入れ物には、一緒に、刀や鑑、仏像、お金なんかを入れています。そして、これら全体を守るために作ったのが「経塚」です。
※以下の写真はトーハク所蔵品です。道長さんが埋めたものではありません。こんなものだったんじゃない? という参考に。
わたしの名字には「塚」っていう漢字が入っています。以前、同僚だった中国人に、名前の漢字の一文字ずつの意味を聞いていったら……「塚」は「お墓のことだ」と言っていました。日本でも、まぁまぁ同じ意味で使われていて、お墓を意味したり、お墓みたいに土を盛っている場所を「塚」と言います。
「経塚」の構造を見てみると……「これってお墓だよね」という感じです。以下のイラストが、上から、平安時代……鎌倉〜室町時代……室町〜江戸時代……と、経塚の構造の変遷が記されています。特に初期の経塚は、まんまお墓っぽいですね。藤原道長さんも、金峯山の頂上に、こういうものを作ったのかもしれません。
で……なんで「お経」を埋めちゃったの? とも思いますよね。
これは仏教ワールドのストーリーに関係しています。平安時代は、仏教の開祖であるお釈迦さんが亡くなってから、だいたい2000年が経ったと考えられていました。どの宗教も同じでしょうけど、開祖が生きていた頃は、弟子たちも教えをきちんと理解して、実践に努めるものです。でも、その弟子から孫弟子……孫弟子から曾孫弟子……と世代が変わるごとに開祖の教えって薄まってくるというか、護られなくなるものです。
例えば高校の野球やサッカーなどの部活に例えると……すごい名監督が現れると、一気にチームが強くなりますよね。でも、その監督が辞めると、徐々に弱くなっていくものです。宗教だったら、その後に「中興の祖」みたいなのが現れて、また盛り返しますが、それでもまた勢いは衰えていく……で、また誰かが現れるのを待つ……みたいな。
仏教も、釈迦が亡くなった(入滅)後に、2000年が経つと「誰も仏法(教え)を守ろうとしない、暗黒世界がやってくる」と言われてきたんです。そもそも仏教ストーリーでは、1つの世界に1人の如来がいるはずなのに、釈迦(如来)がいなくなってしまったのですから、人間が居る世界は「如来不住」とでも言うのか、監督の不在の高校野球部みたいな感じになっています。そりゃ乱れますよね。で……その釈迦入滅の2000年後というのが、まさに平安時代の永承7(1052)年だとされていて、末法の世がスタートすると言われていました。藤原道長さんの時代は……というか、どの時代でもそうだと思いますが……『光る君へ』で描かれているように、洪水があったり日照りがあったり飢饉があったりと……さらに興福寺が好き放題していたりと……「うちらヤバくね? やっぱこれって末法の世が近づいているからだろ。もうダメだ……お先真っ暗だ……」みたいに多くの人が思っていた……末法思想が広まっていた時代なんです。
じゃあその末法の世から、自分たちを救い出してくれる……人間世界に次に現れる如来さまは誰なんだ? いつ来るんだ? というと……56億7000万年後に弥勒菩薩が現れて、仏法が保たれることで平和が訪れる……というのが仏教世界のストーリーです(今現在、弥勒菩薩は修行中で、56億何千年後には如来になる……ということなんでしょうね)。
でも藤原道長さんの時代は、末法の世の真っ只中です。「仏法が、ないがしろにされていく時代に、仏典が消失してしまうかもしれない」……「そうなってしまっては、弥勒さんがやってきた時に困ってしまうだろう。困らないように、今ある仏典を埋めておき、56億7000万年後に降臨する弥勒さんにお届けしよう」みたいな感じなのが「経塚」です……というようなことが、トーハクの解説パネルに記されています。
■金峯山に埋められていた遺品の数々
やっと、ここからが主題です。そもそも今回は、トーハクが所蔵または管理している金峯山……大峯山の頂上付近に埋められていた遺品の数々を紹介するnoteにしようと思っていたのです。ちなみに発掘された……出土したのは……江戸時代の元禄4年(1691年)だと考えられています。この時に大峯山の頂上に立派な本堂「山上の蔵王堂」が建てられた……大規模な工事がされたからです。
ということで、まずは「金峯山出土」と記録されている……おそらく大峯山の山頂付近から出土した遺品です。
↑ まずは最も重要視された「蔵王権現」です。銅板に蔵王権現を浮彫りさせて(浮彫状)、頭髪や天衣、足下の蓮華などは線刻で細かく表現しています。さらに鍍金……金メッキが施されていますね。解説には「懸仏(かけぼとけ)」と記されています……どこかに懸けておいたんですかね?
次も円い鏡のような銅板です。こちらには千手観音が刻まれています。
角度と色みを変えると、もう少し見やすくなりました。
女神の次は男神です。
下写真の《子守三所権現鏡像 E-15288》は、総合文化展(平常展)でいつも展示されているものです。「奈良県天川村 大峯山頂遺跡出土」と書かれているので、出土時期は異なるかもしれませんが、同じく大峯山の山頂で出土したのでしょう(おそらく明治期に発掘された遺物ではないかな……と)。
錫杖の末端に取り付ける、銅で作られた錫杖頭です。歩くたびに、シャリン! シャリン! と鳴るやつですね。
次は「文磬(もんけい)」というものです。時々、寺の廊下みたいなところに、天井から架かっているのを見かけます(違うかもだけど…)。鐘の小さいバージョンみたいなもので、棒で叩いて、「時間だよぉ〜」って、知らせるもの……だと思ったのですが、解説パネルには「文磬は法会の際の合図などに用いられる仏具」と記されていました。
■藤原道長の御岳詣の記録(#ネタバレ含みます)
藤原道長さんによる御嶽詣(おんたけもうで)については、彼がしたためていた日記『御堂関白記』に、詳細な日程が記されていました。基本は、なんちゃって漢文で記されています。その書き下し文がネットにあったので、日記の中から、彼が自宅の土御門邸を出発した8月2日から、大峯山の山頂にお経を埋めた8月11日を経て、12日に帰路につくまでの部分を下に写しておきます。これを読むと、大河ドラマ『光る君へ』のストーリーと、矛盾することがおこるかもしれませんし、日記とぴったりと整合しているかもしれません。
↓ 泊まった場所などは、下記サイトを参照しました。
■経筒に刻まれた銘文
藤原道長が大峯山の山頂に埋めた……お経を入れた経筒の外側に記されていた銘文の全文があったので、こちらに書き写しておきます。藤原道長さんが、どういう気持でお経を埋めて経塚を作ったのかが分かります。
上の経筒に記されていた銘文を、Perplexityという生成AIに現代語に直してもらったのが下記です。どれだけ正確なのかは、残念ながらわたしには分かりませんが……だいたいこんなことが書かれているというのは、間違いないんじゃないかなぁと。藤原道長さんが、どれだけお釈迦さんや蔵王権現にすがろうとしていたのかがひしひしと感じられる文章です。
■<参考にしたもの>
田中利典「奈良で生まれた修験道」(PDF)
田中利典「繋がりの中で生きる〜修験道に学ぶ〜」(PDF)
以上です。
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