小さな色紙や絵巻の中に、精緻に描き込まれた世界がヤバい! @東京国立博物館
東京国立博物館(トーハク)の平成館にて、特別展「やまと絵ー受け継がれる王朝の美ー」が、12月3日(日)までの会期で始まりました。
もちろん特別展は素晴らしいのですが……同じくらいにというか「それ以上にすごいじゃん!」と思う人も少なくないんじゃないか? という特集展が、同じトーハクの本館で展開されています。過去noteでもしつこいくらいに記してきましたが、その特集展の展示替えが、先週行なわれました。また数度に分けてnoteしておきたいと思います。
■「やまと絵」って何?
「やまと絵」とは、外国……特に中国大陸から伝わった唐絵や漢画の影響の少ない、日本独自色の強い……つまりは「日本っぽい」絵の総称です。
具体的には、絵巻や屏風、扇子などに描かれた、源氏物語や伊勢物語などを画題にしたもの、または日本の花鳥風月を描いたもの、日本の年中行事……各種の祭事や催事を描いたものが、「やまと絵」と呼ばれています。
今回は、その中でも日本の神話や年中行事などを描いた作品をnoteしていきます。
■雑画帖 土佐光則
素晴らしい作品ばかりがあちこちに並んでいると、頭が麻痺してきて、「ほほぉ〜」などと感心する風を装って、実は何も感じず……感じようともしないで……展示室を散歩してしまうことがあります。それはそれで良いことですが、せっかく博物館に来ているのだから、好奇心を懐き続けながら一つ一つを鑑賞できればとも思います。
《雑画帖 上帖》は、散歩しながら近くを通り過ぎるだけだともったいない作品です。できれば近くまで寄って、できれば鼻が展示ケースにくっつかない程度に顔を近づけて、さらにできれば単眼鏡や望遠レンズをつけたカメラで、細部まで見ておきたい作品です。
土佐光則(1583〜1638)が描いた《雑画帖 上帖》は、紀州の徳川家に「人物禽蟲画帖」と呼ばれて、伝わったものだそうです(←なんて読むんですかね? 「じんぶつきんちゅうがじょう」でしょうか?)。
上下あわせて33枚の、横13.3×縦13.5cmの小さな色紙には、その名のとおり、人や動物、虫などが描かれています。もう少し詳細を記せば、33枚のうち13枚には古式ゆかしい舞楽が、8枚には四季の風俗が、12枚には花鳥や草や虫が描かれているそうです(今回見られるのは、そのうちの6枚です)。
日本の美術史学者の村重寧さんは、『近世初期土佐派の「細画」』という論文の中で、次のように記しています。
「(土佐)光則『雑画帖』の、草虫に対する精細な観察、描写の追究は途方もなく、常軌を逸している。」
美術史の専門家にも「途方もなく、常軌を逸している」と言わせるくらいに、細かく描かれているんですよね。見れば見るほど「どうやって、こんな絵が描けるんだろう」とか「どんな筆を使っているんだろう」とか、自分が絵を描くわけでもないのに驚きつつ思ってしまいます。
ちなみに写真の、上の1枚と下の2枚は、同じ色紙を、徐々にズームしていったものです。
色紙の主人公である舞を踊っている2人の表情から衣装までが、緻密に描かれているのはもちろんですけど、背景にある柳の木などは、その葉の一枚一枚まで、根本に生える草までもが、これでもかというほどに細かく描かれています。ぜひ写真を拡大して見てもらいたいです。
先述した村重寧さんは、ほかの研究者の言を引用して「小画もしくは細画は、筆勢を抑えて穏和な描法を求めるところに、その特色を発揮される」とも記しています。
見ているだけで楽しいというか、穏やかな気持ちになるのは、土佐光則さんが、この絵を気負いなく淡々と穏やかな気持で描いたからかもしれません。なんだか全く息苦しさや窮屈さを感じず、小さいなとも思えず、その絵の中の世界にスコンっと入っていけます。
■年中行事図屏風 住吉如慶
平成館で開催されている特別展の『やまと絵』には、《年中行事絵巻(住吉本)》が展開されています。この絵巻は、平安時代の末に常磐光長によって描かれたもの……なのですが、全60巻あったと推定される原本は残っていません。そして展示されているのは、江戸時代の寛文元年(1661)頃に、住吉如慶などによって模写された模本です。
本館で開催されている特集の『やまと絵』では、同じく住吉如慶が描いた《年中行事図屏風》が展示されています。
住吉如慶さんの元の名前(ペンネーム)は土佐広通(または広道など)なのですが、当然、土佐派の絵師でした。前項で紹介した《雑画帖》を描いた土佐光則に学んだ方です。
後水尾天皇が、鎌倉期に活躍した絵師の住吉慶恩(慶忍)の名蹟を復活させたいと願い、その子の後西天皇が如慶を指名。姓を改めて住吉如慶となりました。
さて、本題の《年中行事図屏風》には、解説パネルによれば「『内宴(ないえん)』の様子、なかでも内教坊の妓女たちが舞を披露する場面」が描かれているそうです。これだけだと様子がさっぱり分からないので、Wikipediaの「内宴」に関するページを引用します(内容は変えずに、ところどころ割愛しています)。
Wikipediaの解説とあわせて見ると、上の部分が「内教坊の舞姫の女楽奏舞の披露」ということでしょうね。この「内教坊」は、内裏にあった舞踊や音楽の教習所です。舞っているのは女性だけですが、音楽に関しては、琵琶や琴を奏でている女性の姿が見られます。
ちなみに特別展の『やまと絵』に展示されている《年中行事絵巻(住吉本)》は、現在、田中家が所蔵していると記されています。この田中家ですが……現当主または次当主がおそらく田中順さんという、元ソニー株式会社グループ戦略部門統括部長や元アニプレックス執行役員を歴任された方。その父が日本美術研究家の田中重さん、そのまた父が、『平家納経』の復元で知られる田中親美さん……そしてその前代が、(全く関係ありませんが)クロード・モネと同い年で、復古やまと絵の冷泉為恭の弟子だった田中有美さんでした。4代にわたって、エンタメを含めたアートに関連しているというのが、すごいことだなぁと思いました。
■東照宮縁起絵巻 住吉如慶
ちょうど1年前(2022年10月)に、日光の東照宮へ行き、その宝物殿(博物館)に所蔵されている《東照宮縁起絵巻》を見てきたのですが……一緒に行った息子に「もう行こうようぅ!」と100回くらい連呼され、腕をぐいぐいと引っ張られながらだったため……記憶に残っていませんw
日光の東照宮に奉じられた縁起絵巻は、10歳の頃に東照大権現になる前の(生前の)徳川家康に駿府でお目見得したという狩野探幽が描いたものです。一方、特集『やまと絵』で見られるのは、前項でも記した住吉如慶が手掛けたもの。
解説パネルには「東照宮縁起絵巻は、家康の一代記と東照宮の由来を絵巻にしたもので、全国にいくつかの作例が残されています」とあります。ではいくつあるのか? と言えば、現在、全国にある東照宮縁起絵巻を研究されている帝京大学の准教授、鎌田純子さんによれば「狩野探幽による日光東照宮本、住吉家(如慶など)による和歌山東照宮本、岡山東照宮本、日光輪王寺本、大阪城天守閣本の全5本である」そうです。そのほか、東京国立博物館には「板谷家資料の中に含まれる『東照宮縁起絵巻』の下絵やメモ書など」が所蔵されているそう。ちなみに板谷家とは、住吉家から分かれた幕府の御用絵師の一族です。
今回、展示されている《東照宮縁起絵巻》は「個人蔵」であり、なおかつ解説パネルに「岡山藩主池田光政によって備前(岡山)東照宮に奉納されたもの」とあるので、鎌田准教授が言うところの「岡山東照宮本」にあたるのでしょう。
解説パネルには「本作は家康の三十三回忌に天海の命により制作された。岡山本らしく現地の風景が描かれています」とあるだけで、それ以上の解説はありません。ただし《東照宮縁起絵巻》なのだから、おそらく岡山の東照宮ということでしょうかね……と推測できます。
ということで、展開されている絵巻のなかで最も目立つように描かれていた、上の写真の部分を「岡山の東照宮」と想定しつつ、Google Eathで、現在の岡山の東照宮=玉井宮東照宮を見てみました。
だいたい本殿と拝殿、それに参道にある山門のような門……随神門の位置は、絵巻と同じ位置に残っているようです。ただし調べてみると、拝殿については明治期に建て替えられたもの。というのも、元々近くにあった(現在の駐車場付近にあった)ローカルな神様……玉井宮が合祀されたためだとか。ものすごく立派な拝殿としたそうですが、残念ながら1989年(平成元年)に焼失。現在の拝殿は、その4年後に建てられたものだそうです。
ほぼ絵巻に描かれているのが岡山の東照宮で間違いなさそうですが、気になるのは、絵巻にある禅宗様式のお堂が、Google Earthでは見られないことです。おそらく……明治の廃仏毀釈で取り壊されたのでしょうが、ここには上野寛永寺と同じく、天台宗のお寺があったのだろうと推測しています(わたしが勝手にですけどね)。
というのも、この岡山の東照宮は、西日本で初めてというか「日光から地方勧請がなされた初めての東照宮」(岡山県神社庁HP)ということもあり、「天台宗東叡山毘沙門堂門跡公海僧正を導師とし、諸儀式が仏式により行われ」(Wikipedia)たとあります。当時の上野の東叡山は、比叡山や日光東照宮の上位にある天台宗のトップだったことからも、東照宮の建立とセットで、天台宗の寺が別当として置かれたとしても不思議ではない……というよりも自然だっただろうなと。
さらに調べてみると……福原敏男さんという研究者が記した『祭礼の練物 岡山東照宮祭礼』(国立歴史民俗博物館研究報告 第77集 1999年3月)を読むことができました。
それによれば「この東照宮は、もともと八幡宮(玉井宮)とその社僧寺である大徳院があった城下東の外れの当地に、正保二年(一六四六)、岡山藩主池田光政が岡山城の鎮守として勧請したものである」と。さらに「東照宮には社領三百石が付され、別当寺として東叡山寛永寺末の利光院が定められた。玉井宮は南方に移されたが、維新以後東照宮に合祀され現在に至っている。」とあります。この利光院の正式名称は、東岳山松客寺利光院です。
なるほどねぇ……と思いつつ、文久元年(1861)に描かれた岡山城下町の古地図『備前岡山地理家宅一枚図』を見ると、どうも絵巻にある禅宗寺院のような建物は、拝殿や本殿横の林の中には記されていません。許可を取るのが面倒なので古地図は掲載しませんが、現在の地図に古地図を組み合わせてみると下の図のような感じです。
そもそも東照宮の参道は、本殿&拝殿から南に伸びて、玉井宮の手前で西へほぼ直角に曲がり、山を下って伸びています。そのまま参道を下ると、南に利光院が建っていたのですね。そして1868年の明治維新で「本殿ヲ除クノ外附属ノ社寺悉廃却ス」されてしまったと『岡山県史料1』(岡山県立記録資料館)にあるので、この時に、東照宮へ玉井宮が合祀され……というかむしろ、玉井宮が江戸時代以前の場所へ戻りつつ東照宮を吸収。さらに東照宮の別当寺だった利光院が破却された跡地には、岡山藩により醫學館が設けられた。同時に玉井宮の社僧寺(別当寺・神宮寺)だった、大徳院の伽藍も壊されて、岡山藩主歴代の御祈願所だった聖満山大福寺に合併しました。
そうした由来があることから、現在の聖満山大福寺には、玉井宮の本地仏である虚空蔵菩薩像と如意輪観音菩薩像が残っているんでしょうね。
ややこしいので整理すると……
・玉井宮→東照宮のある元の場所に移動して、東照宮と合祀される
・玉井宮の別当寺の一つだった大徳院の伽藍も破却→近くの大福寺と合併
・東照宮の別当寺であった利光院は破却
では、東照宮の別当寺である東岳山の利光院は、どこに描かれているのか? が解決していませんね……。はじめの《東照宮縁起絵巻》に戻って見ると、絵巻の中の東照宮参道を下って行った先の川沿いに、広い敷地の庭園の中に僧坊のような建物が描かれています(上の図)。ここが利光院か? とも思ったのですが、先述した岡山城下の古地図を見てみると、大きな敷地を持つ「(萬歳山)國清寺」という寺院が記されています。こちらは絵巻にも描かれている、市内を流れる旭川の中洲のほど近くにあります。
ちなみに萬歳山の國清寺は、現在もほとんど同じ場所に建っています。建っていますが、だいぶ縮小されてしまったようです。往時の1/10くらいの敷地面積でしょうか。
ということで、もろもろ考えると《東照宮縁起絵巻》の川沿いに描かれているのは、萬歳山の國清寺で間違いなさそうです。今はお庭がキレイという評判のお寺ですが、絵巻にも描かれているように江戸時代もお庭のキレイさを誇っていたのでしょう。
ということで、《東照宮縁起絵巻》の東照宮の拝殿横に描かれている禅宗様式のお堂が、やや消去法ですが利光院を描いたものだと推測します。
ここまで読んでくれる人はほとんどいないと思いますが、《東照宮縁起絵巻》も、実はものすごく細かく描き込まれてています。展示ケースの関係上、萬歳山の國清寺の庭を見ると、それがよく分かります。さすが土佐光則の弟子! という感じですね。