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豪快に間違う、豪放な書家・三井親和について……@東京国立博物館
東京国立博物館(トーハク)で、2〜3回見たことがあって、なんか気になるなぁと思いつつ、いつも深入りせずにいた書がありました。
三井親和(しんな)さんという方が書いた《詩書屏風》です。
解説パネルによれば「三井親和は中国書法(唐様)を能くした書家で、草書のほか篆書や隷書も得意としました。(中略)18世紀の江戸で大流行しました。この作品は中国・明時代の6篇の詩から2句ずつ書き出したものですが、屏風に貼る順番が混乱しています」
注目したいのは、まず「屏風に貼る順番が混乱している」点と「江戸時代に大流行」した書家であったということです。
■誤りが多い書家だった?
三井親和さんの屏風には、中国古典の『詩書』がしたためられているそうです。解説パネルには、トーハクでは珍しく、何が書かれているのかが記されていました。なのですが……「正しくは〇〇」と各所で誤りが指摘されています。
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小荒井智恵・小荒井蓉子氏寄贈
B-3211
<右隻>
高城(正しくは、黄龍)
東去海雲低玄
菟城頭烏夜啼
東都親和書
弦中(正しくは、高城)
雨過涼生席残
夜花名月満楼
深川親和書
黄龍(正しくは、弦中)
白雲寒相語鏡
動清霜曉自新
八十一歲親和書
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小荒井智恵・小荒井蓉子氏寄贈
B-3211
〈左隻〉
春流(正しくは、九天)
気王旌旗動三
殿風清剣佩長
庚子夏親和書
條封(正しくは、春流)
無恙桃花水秋
色依然瓠子宮
龍湖親和書
九天(正しくは、條封)
姑射千秋雪蓋
擁蘭台条里風
八十一歲親和書
この三井親和さんについては、わたしは何も知りませんでした。聞いたこともありません。ただ、どんな人なのかを少し調べただけで、書道史においては、ものすごく重要な方だったことが分かってきました。
日本書道のサイトに載っていたのが、根來孝明という方が書いた論文『三井親和の書について』です。ここには、三井親和さんについて過去に記された論文や書物などの一覧があるのですが……その多さに驚かされます。わたしが聞いたこともない人のことが、これだけ多くの書物にまとめられているとは……。
三井さんの書の評判については、以下のように記されています。
「三井親和の書の特徴は、線の太さや長さの変化、筆の動きや角度の変化、墨の濃淡や乾湿の変化などにある。これらの変化は、書の表情やリズムを豊かにし、視覚的な魅力を高めた」
そう言われてみると、たしかに何か気になる……というか、その場を立ち去れなくするような魅力が感じられます。それはもしかすると、上述のような視覚的な魅力があるからなのかもしれません。
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■傲慢? 変人だった?
そんな魅力あふれる能書家でしたが、反面「学がなく誤りが多い」という指摘もあったようです。先ほどのトーハク所蔵の《詩書屏風》も、貼り付ける並び(言葉の並び)がかなり間違っているようです。トーハクの解説パネルには「並びに混乱がみられる」といったようなことが記されていますし、先述した日本習字の論文PDFには、正しい並びが記載されていますが……ずいぶん間違ってるなぁという印象を受けます。(まぁ書いたのは三井さんでも、屏風に貼り付けたのは三井さんじゃないかもしれないし、わざと順序を変えたのかもしれませんけどね)
おそらく三井親和さんが人気者だったから、妬む人も多かったのだろうと想像できますが……三井さんもまた「自分の書が誤っているのに、間違えを何が何でも認めない」という、偏屈な性格だったのかもな……と思わせる有名な逸話があります。少し長いですが、大正6年に出版された足立栗園 さんが著した『奇骨変人伝 滑稽百話』の、三井親和さんの項を……著作権が切れているので……そのままコピペさせてもらいます(一部、旧字体を新字体に変更)。
近ごろ東東京日本橋の白木屋呉服店にて、親和染(しんなぞめ)といふのを再興して、一寸世人の好奇心をそそつたが、其の親和(しんな)は江戸時代、安永天明頃に世に鳴り渡った書家であつた。親和は其の名で、通称を孫兵衛とよび、三井を氏とした学者であつて、かの有名なる細井廣澤(細井広沢)を師として書を学び、又射術(弓道)をも磨いたのであつた、この親和は字を孺鄕、龍湖と號し、萬玉亭と名づけ、深川に住して一世の文人として立てられた。殊に築書を善くしたから、当時流行の絹や縮緬(ちりめん)に親和の書風の篆書を染め抜き、之を親和染として売弘めた所、意外にも大に流行を来したといふ、それにて其の頃の盛名をトすべきである。
所で親和は書道よりも一層弓術に妙を得て居つた、三十三間堂の透し矢など
は毎々人(ごとごとひと)の眼を驚かしたほどてあった。然るに当時深川なる三十三間堂が大に朽?して修繕を要する所より、能勢某之を再建することゝなつた。そこて市中三老家よりも能勢殿の命により。此の堂の扁額を寄進することゝなり、其の文字は誰に揮毫せしめたら、よいかといふことになって、それは書道に達し、弓術に巧みなる親和こそ然るべしと一決し、やがて親和の許に来たり、此の事を物語つて、扁額上に三十三間堂と書さんことを依頼した。其の時親和は頭を傾けしかし三十三間堂と書くといふは、何となく拙く覺える、何か他の文学あるべしとて、数日考案の後、ついに圓通(円通)の二大文字を認めたのであつた、これは三十三間堂は元は浅草にあつたもので、其の額は土屋侯の筆であつた、侯は当時の能筆であって、和漢の学に長ぜらるゝ御方であったから、侯に願ふて扁額の文字を乞ひ、終に圓通と記されたものである、そこで親和も之に倣(なら)ふて、圓通の二文字を以てしたものであつたが、いよいよ三十三間堂落成して、数度通し失も盛んに催され、見物群集した時に、人々は皆当時の能筆なる親和の額面を褒めたものである。
三井親和さんは、旗本の諏訪家の家来の三井家に生まれます。資料を見ると、名前の「親和」を「しんな」と読んでいますが、江戸から明治に書かれた本を見ると「ちかかづ」などとルビが振ってあったりして、必ずしも「しんな」と呼ばれていたわけではなさそうです。とにかく三井親和さんは武士だったわけです。
書の師匠の細井広沢は、儒学者としてなんとなく名前を聞いたことがあります。その細井広沢もまた武士だったのですが、道場が同じだった堀部安兵衛……高田馬場の決闘で有名な人というか赤穂の四十七士の1人……と親しかったそうです。その縁で細井広沢は討ち入りに際してはかなり協力していました。そんな、ちょっとした武闘派として知られていた細井広沢の弟子……ということで三井親和さんも血の気の多い能書家というイメージが、定着していったのかもしれません。
しかも真偽は分かりませんが、三井親和さんの方は弓術に秀でていたそうで、京都の三十三間堂を真似て作られた深川の三十三間堂の通し矢では、群衆を沸かした……なんてことが記されていますね。
そんな、深川の三十三間堂がぼろぼろになってしまったから修繕することになったと……もしかすると、火事で焼失した後に再建された時のことを想定しているのかもしれません……で、お堂に掛ける扁額を三井親和さんがお願いされたそうです。書はもちろん弓術にも秀でている……しかも書かれてはいませんが深川に住んでいたので……三井さんに書いてもらうのが最もふさわしかろうと。
依頼をうけた三井さんは「『三十三間堂』と書いてもつまらないな……なんて書こうかな?」なんて、ひとひねりしたかったようです。それで、江戸の三十三間堂が深川に移転される前に、浅草にあったことを思い出したんです。浅草にあった頃には『圓通(円通)』と記されていたのを知って、「それじゃあ深川のにも『圓通』が良いじゃないか!』となって、そう書いたわけです。で、落成の時に扁額もお披露目されて「さすが三井さんが書いた扁額は素晴らしいですな」なんて評判になりました。
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所が或日(ある日)、律僧が二人此の堂下に来り、親和の認めし扁額を見て大に笑い、答へていふやう、さても文盲なる書きざまである。又比を守って居る(寺を管理している)別當(別当)も沙汰の限りの愚物であると、そこで之を傳へ聞く人 変に思ふたが、一向其の意を得す、最も不審に思ふて居った所。一老人開き傳へて、成る程と察し、早速親和の許を訪ふていふやう、この程律師二人、三十三間堂に来り、貴師の書かれし扁額を見て甚だしく誹ったと聞き及ぶ、之は理由のあることで、元と三十三間堂が浅草にあった時は安置の仏像は観音菩薩であったから、圓通でよいのであった、しかし深川に移ってよりは、其の佛像は薬師如来となって居る、されば薬師に圓通は意を成さぬ、之ははやく瑠璃殿とでも書き直さるゝがよからうと、如何にも親切に注意してくれた、其の時親和聞いて答ふるやう、それ大に理由のあることである。ただし自分はただ古きを慕ひ、土屋侯のあとを追ふて彼の如く認めたものであつたが、豈に図らんや、観音の像が薬師に化けて居らうとは、一向に氣が付かなかった。然し自分は今まで一度認めたものを、二度と書換へたことはない、されば圓通にて間に合ふやうに、佛像を鋳直すことゝしやうとて、それより寺僧に乞ひ、若干の黄金を?ち、鋳物師に命じて、楽師の像へ多くの手を鋳かけさせた所。たちまち、薬師如来変じて千手観音と生れ変らせ給ふた、そこで之を聞く人不敬と誹るもあり、又親和の英氣を威じたものもあつたといふ。虚実は判らぬけれども、親和といふ男は廣澤(細井広沢)の弟子だけあつて、中々奇骨稜々たる快男児であつたものと見へる。
かくて親和は天明二年三月七日八十三歳の高齢を以て歿し、深川増林寺に葬られたといふ。
三井親和さんが『圓通(円通)』と書いた深川三十三間堂の扁額を見に来た、2人の坊さんが、それを見て「なんで『圓通』なんだよw? これを書いたやつはバカか?」と笑ったそうです。なぜかといえば、 浅草三十三間堂に『圓通』という扁額だったのは、本尊が観音菩薩だったからなのだそうです。それに対して深川三十三間堂の本尊は薬師如来。「それを知らずに浅草のを真似て『圓通』とするとは……笑止千万w」となったわけです。
それを聞いた地元のおじいさんが「いやぁ〜、まいったな……たしかに『圓通』はおかしい。これは書き直した方がいいですよ」と、三井親和さんに言いに行ったんですね。そしたら三井親和さん……「そんな話はしらないよ。『圓通』がおかしいって言うけど、俺は、かつて浅草三十三間堂に『圓通』と書いた能書家の土屋様のあとをならって『圓通』と書いたまで。それに俺は一回書いたものを書き直したことなんざ、これまで一度もない。『圓通』がふさわしくないから書き直せっていうなら、言わせてもらおうじゃねぇか。本尊を『圓通』にふさわしいものに鋳造し直せ!」
この話……明治大正時代に、同じような話がいろんなパターンで書かれているんですけど……前述のように「鋳直せ」と言った時に、「それでも文句があるってんなら、俺は今から(寺を管理している)別当のところへ行って切って捨て、その場で俺も切腹する」みたいなことを言ったと書いている本もありました……もうめちゃくちゃですねw
まぁでも話によれば、鋳造し直すことはできませんが、またお金を集めて鋳物師に来てもらって、仏像の手をたくさん作ってもらい、それを本尊の薬師如来に取り付けていったと……「はい、千手観音になりましたよぉ」と。それを聞いた三井親和さん……喝采したということです……。
読んでいると「書き直せよ!」とも思ってしまいますけど……まぁ江戸っ子の好きそうな、ハチャメチャっぷりですねw。まさかこの話が本当だったとは思えませんが、それだけ三井親和さんが「めんどくせぇやつ」だった可能性は高いでしょうね
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上述した話と同じような話が載っている本の挿絵
■江戸時代に一世を風靡した!
面倒くさい性格の三井親和さんでしたが、トーハクの解説パネルにも記されているとおり、「18世紀の江戸で大流行」したのも確実のようです。前項で挙げた『奇骨変人伝 滑稽百話』でも、「近ごろ東東京日本橋の白木屋呉服店にて、親和染といふのを再興して、一寸世人の好奇心をそそつた」とありますから、江戸時代に流行しただけでなく、明治大正時代にも引き続き書の世界でだけでなく、名前の知られている存在だったと思われます。
ところで「親和染(しんなぞめ)」といわれるものがどんなものだったのか……実はトーハク所蔵の鳥居清長が描いた浮世絵を見ると、分かります。
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あるいは《尾上松助と遊女》
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上の《尾上松助・太夫》という浮世絵がそれなのですが、左側の立っている女性の着物を見ると、篆書っぽい文字が記されていますよね……真ん中の文字は「寿」でしょうか…。これが三井親和さんの書を染めた「親和染」なのだそうです。
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これを見ると「江戸時代に一斉を風靡した」と言われたら信じざるを得ませんね。
ということでまとめると……
・三井親和さんは書の世界で本当に有名な人だった
・その書は江戸時代に大流行した時期があった
・その書の内容は、間違いが多々見受けられた
・彼はとっても面倒な性格……良くいえば「奇骨稜々たる快男児」だったよう
さらにですね……詳細は知らないので記しませんでしたが、三井親和さんは、亀田鵬斎(ぼうさい)さんの師匠だったらしいのです。亀田鵬斎さんは、以前少しnoteしましたが、まぁ今度また調べて記したいと思っている1人です。
それではまた
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