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江戸時代に殿様が描いて作った虫の図譜……蟲を愛した増山雪斎さんの《蟲豸帖(ちゅうちじょう)》
もともと図鑑など、なにかのコレクションっぽいものが好きなうえに、それを江戸時代の殿様が作ったものということで、以前から増山雪斎さんの《虫豸帖(ちゅうちじょう)》は、見てみたいなぁ……いつ見られるかなぁ……と思っていました。それが今季、東京国立博物館(トーハク)で展示されていると聞いて、さっそく見に行ってきました。現在は《虫豸帖(ちゅうちじょう)》の春と冬の帖が、それぞれ2ページ分づつ展示されています。
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ちなみにColBaseによれば「『虫』(ちゅう)とは小型生物のうち足のあるもの、『豸』(ち)とは足のないもののこと。つまり虫豸帖という題名は、さまざまな小型生物を集めた画帖を意味して」いるということです。
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実際に《虫多帖》を目の前にすると、期待していた通り、精緻に描かれています。まぁ虫と言いつつ、トカゲやカエルも描かれています。いちおう、分類されて編集されていますし、一つ一つ、何年の何月何日に書いたのかも記している点から、これが美術書ではなく本草書であることが分かります。
《冬の帖》には、クモ・水生の虫類・淡水魚・トカゲカエルなどがまとめられているそうです。ということで以下は《冬の帖》ということになります。
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増山雪斎さんは、本草書ではなく、普通の絵も描いていたとのことです。当時の将軍や各藩の子弟は、教養の1つとして絵を習っていたと聞いたことがあります。増山雪斎さんも、そうして幼少期から自然と絵を学んでいたのかもしれません。
増山(ましやま)雪斎さんは、伊勢の長島藩の藩主で、本名を正賢(まさかた)と言いました。宝暦四年(1754)に江戸で生まれ、文人の大田南畝や大阪の豪商、木村蒹葭堂など、広く文人墨客と交流を持っていたそうです。彼らの庇護者としても活躍したと……東京都台東区の教育委員会の看板に記されています。
また「清朝の画家、沈南蘋に代表される南蘋派の写実的な画法に長じ、多くの花鳥画を描いた」と、台東区教育委員会の看板に記されていました。沈南蘋とは、1682年生まれの沈銓(しんせん)さんのことですね。以前、東洋館の特集をnoteした時に作品1点とともに出てきました。
沈銓(しんせん)さんは、暴れん坊の徳川吉宗というか、徳川幕府から招聘されて、1731年 (享保16年)に、弟子を連れて日本にやってきました。そして長崎に2年弱滞在。写生的な花鳥画の技法を伝え、直接ではないでしょうけれど、「円山応挙・伊藤若冲など江戸中期の画家に多大な影響を及ぼした」とWikipediaには記されています。その流れで、増山雪斎さんにも伝わったということでしょう。
そして、増山雪斎さんは、《虫豸帖(ちゅうちじょう)》を作るにあたって、犠牲となった虫などを弔うために、「虫塚」を立てています。当初は増山家の菩提寺……寛永寺の子院の1つ、勧善院の境内に作ったそうですが、その勧善院が昭和初期に寛永寺に合併されます。その時に、かつての場所から寛永寺……現在の根本中堂の境内にあります。
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《虫豸帖(ちゅうちじょう)》が展示されると知った時に、その虫塚を見てきました。これまでも何度か見たことがあるのですが、今回は改めて訪ねてみたんです。見てきたと言っても、寛永寺の根本中堂は、トーハクのご近所さんなので、わざわざ行ったというよりも、トーハクへ行く時に寄ってきたという感じです。
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寛永寺の現在の中心的なお堂が根本中堂です。芝の増上寺に比べると、かなりこじんまりとした境内です。それというのも、幕末の1868年に、幕臣と西郷隆盛などの西軍とが、全山が寛永寺の境内だった上野の山を舞台に戦いました。俗に上野戦争と呼ばれれている戦いで、もともと現在のトーハクの敷地内などにあった寛永寺の主要な建築群は、大半が焼けてしまいました。そのまま寛永寺も廃寺になったか、なる危機だったのですが、たしか渋沢栄一などの旧幕臣の尽力によって、再興……という言葉が適切か分かりませんが……現在の根本中堂のある場所に中心となるものが残されました。
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このことをWikipediaには「(明治12年に)川越の喜多院の本地堂を移築して本堂(中堂)とし、復興の途についた」としています。ちなみに渋沢栄一は、旧幕臣というか徳川慶喜との関係が深かったために、寛永寺を渋沢家の菩提所としていて、今も渋沢家の墓所があります。その縁により、信徒総代を務めていたようで……信徒総代となったから渋沢家の菩提所にしたのかもしれません……川越の喜多院のお堂を移築することに奔走したようです。なぜ川越の喜多院からだったのかは、調べれば分かると思いますが、わたしの推測だと、Wikipediaにもあるとおり、喜多院は、寛永寺の創始である天海僧正が住んでいた場所だったことが挙げられるでしょう。その関係から、おそらく、推測でしかありませんが、寛永寺と喜多院は江戸時代を通して関係が深かったと考えられます。その延長の話になりますが、渋沢栄一は浅草寺の信徒総代として、関東大震災で倒壊した同寺の本堂再建にも尽力したそうです。なぜ浅草寺? というのは、これは江戸時代の綱吉のときから、浅草寺は寛永寺の管理下にあり、密接な関係というか……寛永寺のトップは浅草寺のトップでもあった慣例が、明治や大正まで続いていたようです(同じく寛永寺の管理下だった比叡山や日光山は、いつ頃から独立したのかも気になるところです)。
話が長くなりましたが、寛永寺の根本中堂の境内にある増山雪斎さんの虫塚に話を少し戻します。
台東区の教育委員会による案内板には、「碑は安山岩製で台石の上に乗る。正面は、葛西因是の撰文を大窪詩仏が書し、裏面は詩仏と菊池五山の自筆の詩が刻まれており、当時の有名な漢詩人が碑の建設にかかわったことが知られる」と記されています。
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↑ この小さな石が虫塚です。
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何かが書かれているのは分かりますが、内容まで知るためには、個人だとそうとうの労力がかかりそうなので、わたしはさっさと断念しました。ネット上を調べてみましたが、ちょっとやそっとでは分からなそうなので、今度、台東区に聞いてみようと思います(回答してくれるか分かりませんが…)。
裏面には漢詩が記されているそうですが……これまた何と書かれているかは分からなそうです。
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そして虫塚の隣には、「上野戦争碑記」という立派な石碑があります。これは文字をはっきりと読むことができますが、長過ぎるので、今度機会を作って読んでみたいと思います。上野戦争には、その始まる前までは、渋沢栄一の親戚……というか養子も……深く関わっているので、この供養碑にも渋沢栄一が関わっているかもしれません。
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ついでなので、本堂をぐるりと巡ってみました。
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↑ なんの建物か分かりませんが、これが寛永寺の子院の1つだった大慈院に関連する建物でしょうか。おそらくこの中に、大政奉還→鳥羽伏見の戦い後に、船で江戸へ逃げ帰ってきた徳川慶喜が謹慎していた葵の間がある建物だと思われます(すみません……調べて書いたわけではないので、確証はありません)。
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ということで、今回は増山雪斎さんの《虫豸帖(ちゅうちじょう)》は、素晴らしかったというnoteでした。
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