狩野派2代の狩野元信が描いたかもしれない《囲碁観瀑図屏風》 @東京国立博物館
狩野派の2代である狩野元信の作と言われる屏風を、東京国立博物館(トーハク)で見るのは、今季で3〜4回目になります。現在展示されているのは、重要美術品に指定されている《囲碁観瀑図屏風 A-11689》。
解説パネルには“伝”狩野元信筆と記されているので、必ずしも狩野元信さんが描いたのかは不明なのでしょうが、まぁ彼が生きた時代……本格的に戦国の世になりつつある時に描かれた屏風であることは間違いないのでしょうし、狩野派がこうした絵を描いていたことも疑いないのでしょう。
どう戦国時代を捉えるのかというのは人それぞれとはいえ、間違いなく言えるのは、室町時代には今風に言えば一人あたりのGDPが増えていたということ。その生産物は、必ずしも生産者に還元されていなかったかもしれませんが、地方の為政者(いせいしゃ)である武家には流れ込んでいたようです。そのため地方の武家の力が増して、じょじょに京の朝廷や幕府の力が相対的なのか絶対的なのか分かりませんが弱まっていったようです。当然、力を増した地方の武家たちを、朝廷なり幕府なりの中央政権が統率できなくなり、地方の武家たちはますます自分たちの勢力を拡大しようとするわけで……世の中が乱れていった……戦国時代へと突入していったという流れになります。
GDPが増えるということは、娯楽や趣味に使われるお金が増えるということでもあるので、自身が戦乱に巻き込まれさえしなければ、絵師を含む、エンターテイメント産業に従事する人たちにすれば、ある意味、良い時代になりつつあったとも言えるかもしれません。
今回の《囲碁観瀑図屏風》のタイトルを読むと、「囲碁」と「観瀑」という、とても優雅な情景です。
Wikipediaによれば、中国から囲碁を日本に伝えたのは、吉備真備ということになっています。そうであれば、吉備真備が735年前後に日本に持ち帰ってきたことになります。吉備真備が伝えたのかは分かりませんが、8世紀に「最新の娯楽」として日本で遊ばれるようになったのは間違いないでしょう。そして「日本でも平安時代から広く親しまれ、枕草子や源氏物語といった古典作品にも数多く登場する。戦国期には武将のたしなみでもあり、庶民にも広く普及した。江戸時代には家元四家を中心としたプロ組織もでき、興隆の時期を迎えた。」と、Wikipediaには記されています。
ということで、《囲碁観瀑図屏風》が描かれた当時は、目新しい遊びではなく、かなり古典的なボードゲームといった感じだったでしょう。この屏風の「右隻に囲碁をする人々、左隻に滝を眺める人々」が描かれているのも、高貴な人たち……文人を自称する人たちが嗜むべきなのが、時には囲碁で頭を鍛えて、時には観瀑でリラックスする……趣味においても緩急をつける……ことだったのかもしれません。
今回、見ていておもしろいなと思ったのは、日本美術史の系譜が感じられる絵だなと思ったことです。どんな絵でも、そうした系譜は感じられるものだと思いますが、この絵は分かりやすいということ。
例えば右隻の右側にチョコッと描かれている松の林は、狩野派が信奉した雪舟の師である伝周文筆 《四季山水図屏風》や、後代の長谷川等伯《松林図屏風》を想起させます(いずれもトーハク所蔵の作品)。
登場人物や松以外の自然の描写については、唐様とでも言うのか、大陸の影響が色濃いことがひと目で分かります。木の葉の描き方や彩色の施し方などは顕著ですし、そもそも登場人物が中国人なのでしょう。
「囲碁」を描いた右隻から、「観瀑」を描いた左隻に目を転じると、右側の滝を、左端の楼閣から眺めている構図です。いますね。
改めて見るとこの左隻の構図は、遠くにある勇壮な滝が、幽谷の中から、その存在感が飛び出してくるような迫力で描かれていて……一般的にどんな評価なのかは分かりませんが……すばらしいんじゃないかと思います。
「観瀑」と言いつつ、メインで描かれているのは、滝を囲むように描かれた岩。氷柱や水晶のようにも見える岩々が、前方に飛び出してくるような存在感を感じさせています。
こうして見ていくと、水墨画も面白いものです……って、、、これって水墨画なんですかね……ちょっと彩色されているからなぁ……。
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