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映画日記『スージーQ』やれるもんならやってみな!とスージー・クアトロは歌った

なんとなくそういう気分なので、だらだらと脈絡なく、思いついたことを、寄り道をしながら、それこそ懐古的な文章を書く。

①日本酒のテレビCMにも出ていた大スター

スージー・クアトロのドキュメンタリー映画を観た。スージー・クアトロというと「酒、ロック、大関」のCMの人だ。1970年代の後半だったと思うが、日本酒の大関のテレビCMに出るくらいスターだった。ロックに興味のない人でも、このCMのことを覚えている人は多いのではないかと思う。有名なところでは、デヴィッド・ボウイの焼酎のCM、「純、ロック、ジャパン」があるが、それがテレビ画面に出てくる3,4年前に、スージー・クアトロのCMがあった。

スージー・クアトロは、現在ではほとんど忘れられているが、70年代半ばは大スターで、日本にも何度もやってきていた。ところが、アメリカではさっぱり売れていなかったということを、この映画で私は初めて知った。そもそも彼女がアメリカ人だということも、今回これを観るまで知らなかった。クアトロは、アメリカのデトロイトで、姉妹バンドとしてデビューして、全国ツアーも経験している。その後、英国人プロデューサーに見いだされ、19歳でイギリスに渡り、スターになり、何度かアメリカに戻ってチャレンジしたが、やっぱり売れなくて、基本的にずっと英国に住んでいる。結婚して引退したのだと思っていたが(日本で結婚式をやった)、そうではなかった。売れなくなって、英国で女優をやりミュージカルをやり、テレビタレントをやり、BBCラジオでDJを長年やり、英国ではそこそこの有名人で、2000年代になってからバンド活動を再開させている。今のスージー・クアトロは、豪快なロックンロールおばちゃんになっている。ということを、この映画で知った。

今回のドキュメンタリー映画には、スージー・クアトロを直接知っている人や、彼女から影響を受けた人が証言者として、たくさん出てくる。それこそスージー・クアトロの家族から、彼女の全盛期を支えたバックバンドのメンバー、その中の一人でギタリストで彼女の元夫などだ。でもなんといっても、彼女に影響を受けたミュージシャン達の顔ぶれを見るのが、私のようなロックファンとしては、楽しいのだ。……楽しいのだが、映画を観終わった後、いまいち豪華さに欠けた印象を受けたのだった。

②あの人は今……証言者として登場する懐かしい顔ぶれ

出てきた顔ぶれの中で大物と言えるのは、アリス・クーパーとデボラ・ハリーくらいだろうか。アリス・クーパーは、デビューしたばかりのスージー・クアトロを、自分のヨーロッパツアーの前座に起用している。そのツアーでスージー・クアトロは人気が出て、認知度も高まったというから、いわば恩人にあたる人だ。証言者として出てくるには適任だ。

でもデボラ・ハリーが出てきた理由がよくわからなかった。ニューヨークを拠点に、ニューヨーク・パンクとニュー・ウェイヴを牽引してきたブロンディのデボラ・ハリーと、ロンドンを拠点に活動をしていたスージー・クアトロとの間には、接点も影響関係もあまりないと思う。数年前に翻訳が出たデボラ・ハリーの自伝にも、クアトロに言及している箇所はなかったと思う。この映画の中でデボラ・ハリーは、自身も紅一点バンドのパイオニアにして成功者の立場から、年下だけどデビュー的には先輩にあたるスージー・クアトロについて、冷静なというか、無難な分析を語っていた。最近のデボラ・ハリーは、ロック界のご意見番のような役回りを求められることが多いので、今回もそんな感じで出演したのだろうか。

他に大物出演者といえるのは、作詞作曲、プロデューサーとして登場していたミッキー・モストという人だと思うのだが、私はぜんぜん知らない名前だった。アニマルズやドノヴァンのプロデューサーだったというから、ビッグ・ネームには違いがない。それにスージー・クアトロのヒット曲の大半はこの人が手がけているというから、適任ではある。

やっぱり私に馴染深かったのは、スージー・クアトロに影響を受けたミュージシャン達だった。テレビでよくある「あの人は今」みたいな感じで、楽しく見ることが出来た。当然だけど、みんな年を取っていた。思ったよりも、かっこいい人がいなかったのが残念だった。私だって年を取っていて、人のことなど言えた義理ではないのだが、みんな芸能人と言えば芸能人なのに、太って皺くちゃになって、それでも派手な服を着ていて、それがあんまり似合っていなくて、かっこよく見えないのだ。特に現役時代、ルックスで売っていた人が年をとると、ちょっとツライものがある。痩せたままの人はいなかった。この映画には登場しないが、ミック・ジャガーはすごいのだなと改めて思った。

出てきた人の名前を列挙してみよう。アリス・クーパー。デボラ・ハリー。トムトム・クラブのベースとギターの夫婦(元トーキング・ヘッズ)の二人。元ランナウェイズのシェリー・カーリー、ジョーン・ジェット、リタ・フォードの3人。トランスヴィジョン・バンプのウェンディ・ジェームズ。フィッシュボーンのベースの人、ゴーゴーズの人、ブロンディの男のメンバー。スウィートのアンディ・スコットなどだ。

③かっこよくなっていたランナウェイズのシェリー・カーリー

唯一、かっこよく見えたのが、シェリー・カーリーだった。これは、ランナウェイズの時がひどすぎたので、今の方がまともに見えた、ということかもしれない。シェリー・カーリーは、昔の日本ではチェリー・カーリーなどと表記されていた。やはり、元ランナウェイズのジョーン・ジェットは、どことなく呂律が回っておらず、現役のジャンキーに見えた。私が一番ショックを受けたのは、トランスヴィジョンバンプのウェンディ・ジェームズだ。私よりも年下のはずなのだが、海辺の観光地にある、エスニックなお土産物屋にいるおばちゃんみたいな顔になっていた。一時期、私はファンだっただけに、ショックは大きい。

映画のエンドロールで、シェリー・カーリーのライブに、スージー・クアトロがゲスト参加してセッションしているシーンが流れた。天井の低く狭い会場で、なんとなく日本のライブハウスみたいな小屋だった。シェリー・カーリーは、私よりも少し年上だったから、現在は62、3歳だと思う。まだ現役でバンド活動をしていたのが、ちょっと嬉しい。それに昔よりもちゃんと歌えている。

この時のシェリーのバンドは、アバウトなロックンロールバンドだ。アバウトというのは、音も演奏能力も大雑把という意味だ。古臭い、ちょっと不良の匂いのする、その意味では由緒正しいバンドの音と見てくれだった。そのバンドが演奏をしていると、途中からベースを持ったスージー・クアトロが呼び込まれて、一緒に演奏を始める。曲は、スージー・クアトロの曲ではなく、シェリー・カーリーの曲らしい。歌詞の字幕が出るので、だいたいのことがわかる。スージーがいたおかげで、私たち女子もロックをはじめられた、スージーのおかげで今の私たちがいる、みたいなスージー・クアトロを称える歌だ。歌詞の一番は、シェリー・カーリーが歌って、二番は、スージー・クアトロが歌ったりする。サビは、スージーのヒット曲名の連呼だ。観客が大喜びで盛り上がっている。明るいロック調だから感傷的ではないけれど感動的な曲で、当人とのセッションは、感動的な光景だ。映画を観ている私も幸せな気持ちになった。幸福感に包まれて、映画は終わった。

④コロナとアラン・メリルとジョーン・ジェット 日本のGSと「アイ・ラヴ・ロックンロール」

ところで最近は、幸いにしてコロナで亡くなる有名人もほとんどいなくなった。コロナ禍が始まった当初は、志村けんや岡江久美子、その後はデザイナーの高田賢三、近くでは千葉真一などがコロナに斃れた。合掌。

ほとんど話題にならなかったが、アラン・メリルも2020年にユーヨークでコロナで亡くなっている。その半年後に、ベーシストのルイズルイス加部が、これは別の病気で亡くなっている。さかのぼって2017年には、ギターのかまやつひろしが亡くなっている。もっとさかのぼって2009年には、ドラムの大口広司が肝臓がんで亡くなっている。この四人が組んでいた再結成ウォッカ・コリンズは、全員死んでしまった。スージー・クアトロのドキュメンタリー映画を観ていたら、一瞬だけ、アラン・メリルの写真が出てきた。それでこんなことを、やっぱり一瞬の間に思ったのだった。

ウオッカ・コリンズは、1971年頃に、日本で結成されたロックバンドだ。当時、日本に住んでバンド活動とタレント活動をしていたアラン・メリルと、元テンプターズの大口広司を中心にしたバンドで、GSの亜流のような位置にいた。数枚のレコードを出している。商業的にはまったく売れなくて、アラン・メリルは、東京を見限って、ロンドンへ行ってしまい、ウォッカ・コリンズは解散した。

イギリスでアラン・メリルは、3人組のバンド、アローズを結成し、「アイ・ラヴ・ロックンロール」を出す。1975年くらいのことだ。アローズは、一群のアイドル・バンドの中の一つといった感じで、日本では紹介されていた。私はアラン・メリルやウォッカコリンズのことは知らなくて、アローズの記事を読んで、驚いたのだった。当時のアイドル・バンドは他に、ベイシティローラーズ、フリントロック、バスターなどがあった。みんなイギリスのバンドで、その中で突出して日本で人気を得たのは、ベイシティローラーズだった。

同時期に、もう一つの流れで、クィーン、エアロスミス、キッス、エンジェルというのも日本では流行っていた。こちらは英米入り混じったバンドだが、アイドル・バンドは違って、本格派バンドみたいな紹介のされ方だった。エンジェルは、来日して武道館公演をやったものの、客が2割くらいしか入らなかった。アルバムも2枚くらいしか出さず、すぐにいなくなった。
今思うと、エンジェルの後継者は、アルフィーの高見沢俊彦のような気がする。

アローズの「アイ・ラヴ・ロックンロール」は、当時はヒットしたのかどうかわからない。1980年代の半ばに、元ランナウェイズのジョーン・ジェットがカヴァーして、全米で大ヒットして、ロックのスタンダード・ナンバーになっている。

ジョーン・ジェットは、スージー・クアトロの大ファンで、クアトロに影響を受けた女性ロッカーの一人として、このスージー・クアトロのドキュメンタリー映画に何度も登場してくる。そのジョーン・ジェットを紹介する場面で、アラン・メリルの写真がちょっとだけ出てきたのだ。それで私は、ウォッカ・コリンズのことを、一瞬にして思ったのだった。

アローズ解散後の、アラン・メリルは、ニューヨーク、ロンドン、東京の三か所を拠点として、音楽活動をしていたが、大きく売れることはなかった。
90年代の半ばに、大口広司、かまやつひろし、ルイスルイズ加部らとウォッカ・コリンズを再結成してアルバムも出したが、一部で話題になったものの、それだけだった。

⑤後期グラムの中のサディスティック・ロックの女王

ベイシティ・ローラーズ、フリントロック、バスター、アローズといったイギリス産のアイドル・バンドが、多数、日本に紹介されたのは、1975年くらいことだった。その少し前に、やはりイギリス産のバンドとして、まとまって紹介されていたのが、後期のグラムロックだった。スレイド、スィート、スパークス、ロキシー・ミュージックなどで、その中にスージー・クアトロもいた。

「後期のグラムロック」、というのは、T-レックスやデヴィッド・ボウイと区別するために、私が便宜的につけただけなので、正式にそのようなくくりはない。雑誌などでは、単にグラムロックの新しいバンドみたいな感じでくくられていたような気がする。

となんでも知っているように書いているが、1975年当時の私は中学生で、洋楽を聞き始めたばかりだった。知識はなかったし、認識の間違いも多いと思う。私よりも年上の人がこの時期の日本のことを書いたら、まるっきり別の洋楽受容史になるのではないかと思う。

さて、この「後期グラム」勢の中で、日本では、ダントツでスージー・クアトロの人気が高かったと思う。サディスティック・ロックの女王などと言われて、なんだ、サディスティックロックって? わかんないけど、とにかくすごそうだ、なんて私は思っていた。

スージー・クアトロの曲は、ブギが基調のわかりやすいロックンロールで、ラジオをよくかかっていた。疾走感のあるロックで、その頃、高校生に評価の高かったディープ・パープルやレッド・ツェッペリンのハードロックや、重々しいプログレなんかより、ずっと聞きやすかった。洋楽初心者には、入り込みやすかった。

登下校の道で、歩きながら「キャン・ザ・キャン」「ワイルド・ワン」「48クラッシュ」「ママのファンキー・ロックロール」などのヒット曲を、頭の中で再生していた。ウォークマンはまだ登場していなかったから、頭の中で再生するしかなかったのだ。

その頃、私はオリビア・ニュートンジョンも好きだった。オリビア・ニュートンジョンの曲を脳内再生している時は、ゆっくりと歩き、スージー・クアトロの時は、早歩きで、もしかしたら、小走りに、本当に走っていたかもしれない。「キャン・ザ・キャン」は、「できっこないだろ、そんなこと。できるならやってみろよ」とけしかけられているようで、「じゃあ、やってやるよ!」といった興奮した気持ちになっていた。スージー・クアトロの曲は、内向的な中学生を、路上で走らせる作用のある曲だったのだ。

その頃、ロックならイギリスはスージー・クアトロ、アメリカならブルース・スプリングスティーンが注目されていたのではなかったか。クィーン、キッス、エアロスミスの怒涛の時代に突入する直前のことだった。

最近はYouTubeで当時の動く映像を見ることが出来るが、その頃は雑誌の写真を見るかレコードを聴くしか情報がなかった。今回、この映画を見て、スージー・クアトロがこんなに小柄な人だったのかと、ちょっと驚いた。

⑥映画館の客を見て、男はもうダメなんじゃないかと思った

今時、スージー・クワトロなんて知っている人はいるのだろうか、と思ったが、意外にお観客の数は多かった。アップリンク吉祥寺、平日の昼間だった。公開初日で、観客は6割くらいか。スクリーン2なので、座席数は52だ。年齢はやはり私以上の人が多いが、若い女の子もいた。その子がどうやってスージー・クワトロを知ったのか、聞いてみたかった。

ジジイ連中は2種類に分かれていた。1種類目は、私のような野暮ったいオヤジ。もう一種類は、年相応のファッションを身に着ける機会を逃したのか、顔と着ている服がズレているオヤジだ。一方、女性陣は加齢のわりにお洒落でかっこいい人が圧倒的に多かった。なんとなく男はもうダメなんじゃないかと思った。

いや、間違った、平日ではなかった、ゴールデンウィークの最中だった。だからお客さんも多かったのだと思う。現在、私は失職中なので、毎日が日曜日だから、曜日の感覚も祝日の感覚もなくなっているのだ。

この映画、曲をちゃんと紹介しないのに不満に感じた。演奏シーンはあるものの、さわりだけだ。最期に一曲通しでやって締めるのかと思ったら、冒頭に書いたようにそれも違った。なんでだろうか?

音楽的な分析とかもあまりなかった。ロック史、ポピュラー音楽史の中での、スージー・クアトロの位置づけも、少々、弱い気がした。女性ロッカーの草分けだということはわかるが、それだけだ。あの時代にスージー・クアトロは一人だけ突出していて、ものすごかったと私は思っているのだが、そのすごさをもっと強調してよかったと思う。音楽ドキュメンタリー映画というよりも、スージー・クアトロの家族の物語だととらえればいいのだろうか。

映画が終わってエンドロールを観ていたら、どうやら監督も制作もオーストラリアのようだった。スージー・クアトロは、オーストラリアで今でも人気があるのだろうか?

⑦いつの間にか消えていたスージー・クアトロ

この『スージーQ』というドキュメンタリーは、2019年公開の映画だ。2022年現在のクワトロは、71才になる。最初の夫との間に子供が二人いて、今では孫もいる。再婚相手とも順調な家庭を築いている。今もロンドンに住んでいるようだった。

何度も書いてしつこいが、スージー・クアトロは、私が中学高校の時に、かなり流行っていた。ラジオからも頻繁に曲が流れていた。シングル曲だけでなく、ニューアルバムが出ると特集されて、何曲かまとめて、紹介されるのが常だった。私はそれらをカセットテープに録音して、毎日、聴いていた。スージー・クアトロは、来日回数も多かった。日本で結婚式もやった。派手やかな着物を着て文金高島田のかつらをかぶった花嫁と、羽織袴の花婿の映像は、3時のあなたでも流れたような気がする。この件に関しては、極秘結婚していたのを、日本のプロモーターが聞きつけて、来日時の話題作りに結婚式をさせられたと、今回の映画で種明かしされていた。日本酒のコマーシャルも、その頃だったと思う。

私の記憶としては、スージー・クアトロは、その後、急にいなくなった印象がある。だから、結婚して引退したのだと思っていた。

数年前にYouTubeでスージー・クアトロの現役の姿を見た。肥って、迫力のあるおばちゃんになっていた。化粧とかおしゃれとは無縁で、あけっぴろげな様子で、まさに下町のおばちゃんといったイメージで、陽性のパワーをまき散らかして、そしてそれは紛れもなくロックだった。そうか、私が知らなかっただけで、ちゃんとやっていたのだ、とある種の感動を持って、
YouTubeを見ていた。

⑧実はアメリカ人だった! 英国では成功したがアメリカでは不遇 早すぎたデビュー

この映画を見て驚いたのは、彼女がアメリカ人だったことだ。それまでスージー・クワトロがイギリス人だと私は思い込んでいた。デトロイト生まれで、実の姉たち四人と、姉妹バンドを結成し、1964年にデビューしていた。ツアーもしている。スージー・クワトロになる以前に、数年のキャリアがあるのだ。叩き上げなのだ。

その後、英国人のプロデューサーに見込まれ、彼女一人だけが引き抜かれて、渡英して、スージー・クアトロとしてデビューして、スターになっている。彼女が一人だけ、引き抜かれたことで、家族には確執が残った。この確執は、長い間、解けることはなかった。

もっとも驚いたのは、スージー・クワトロはアメリカでは、ほとんど売れていなかったことだ。全世界で売れている大スターだと思っていたから、意外だった。日本でもヨーロッパでも、この映画によるとオーストラリアでも売れていたが、アメリカでは駄目だった。

スージー・クアトロの偉大さを語るために証言者として登場したミュージシャンや関係の誰もが口々に早すぎたのだと言う。タイミングが合わなかったということのようだ。彼らの発言をまとめると、こんな感じだ。スージー・クアトロが全盛期の頃のアメリカは、ラブ&ピースやウッドストックの波が引いた時期だ。人々のファッションは、TシャツにGパンでサンダル履きが、まだ主流だった。音楽ではレイナード・スキナードが流行っていた。きっとZZトップなども流行っていたのだろうな、と私は思った。そんなところに、ベースを持った女性が皮のつなぎのファッションで登場して、ロックンロールやブギをやっても受け入れる土壌はなかったのだ。皮ジャン姿でシンプルなロックンロールをやったラモーンズが登場するのは、スージー・クアトロのデビューより数年後だ。数年、早かったということらしい。

アメリカという国は、よくわからない。同じ英語圏でも、イギリスでバカ売れしたバンドでも、アメリカは大敗しているケースが少なくない。たとえば、ロキシー・ミュージックは、今ではビッグ・ネームだが、アメリカでは成功していない。オアシスも、ブリットポップの各バンドも、アメリカでは売れていない。日本はイギリスとは親和性が高いのか、イギリスで売れたバンドは、大抵、日本でも売れる。でも、アメリカで売れているバンドが日本で売れているかといったら、かなり異なっている。

それでもみんなアメリカを目指すのはなんでなのだろうか?

⑨家族との確執と和解

この映画によると、スージー・クアトロは、70年代の末から女優業も始めている。最初に出演したのは、50年代の高校を舞台にしたアメリカのテレビドラマだ。アメリカで活動したのは、それくらいまでで、その後は、またイギリスに拠点を移している。自分のバンドの、イギリス人のギタリストと結婚したこともあるが、イギリスに居住しているのだ。

その後は、ミュージカル『アニーよ銃をとれ』に出演したり、トークショーやバラエティ番組で活躍している。ある時期からBBCラジオで自分の番組を持っている。断続的に音楽活動を続けていたことも、この映画で紹介されている。彼女の息子がギタリストになっていて、2000年代に入ってから、母親と共作をして、復帰作となるアルバムを作っている。そのハナシで、映画がクライマックスになるのかと思ったら、そうではなかった。

姉妹との確執は、2000年代になってやっと解消されたようだった。スージーがヨーロッパでスターになって、デトロイトの実家に凱旋した時には、自分の部屋はなくなっており、服も姉たちがリサイズ・リユースして一着も残っていなかった。スージーは、傷ついて、また英国に帰っていった。そんなことが繰り返されていたらしい。そして、その後、特にきっかけがあったわけではないが、時間がたち、双方が歩み寄るようになったらしい。肉親なんてそんなものだろうと、私も思った。

この映画終盤で、姉たちが肉親ならではの忌憚のない発言をする。「スージー・クアトロのファンであったことは一度もない。なぜなら彼女は妹だから」と言い切るお姉さんたちも、なかなかかっこいい。もともと姉妹バンドしてスタートしていて、スージーは、一番背の低い末っ子だった。姉妹だから、スージーは今でも末っ子なのだ。

姉たちは、スージーに対して、キャリアは認めないけれど、家族としては認める、みたいな感じだろうか。それはそれでしんどいと思うが、年齢を重ね老境を迎えた家族達は、そんなところで手を打ったのだろう。これを語るときの姉たちも、スージーも、ちょっと複雑な顔をしている。

映画の終わりの方で印象的だったのは、スージー・クアトロは、プロフェッショナルな部分であって、プライベートはまた別なのだ、というような言い方を、スージーがしていたことだ。家族は一回こじれると、修復はなかなか難しい。もとには戻らないのだ。しかし、死ぬまで家族は続いていくのだ。

よく音楽は心を一つにするなどというが、スージー・クアトロのロックン・ロールは、家族が抱える問題や複雑な心情を表現したり、束ねたりする曲には、いまのところ、達していないということだろうか。この先、彼女自身の家族を一つに束ねるような、楽曲を生み出すのだろうか? それとも、それはそれ、これはこれ、なのだろうか?

映画館を出たときは、頭の中に「キャン・ザ・キャン」が鳴り響き、オラオラな気分だったのだが、こんな文章を書いていたら、複雑な気持ちになってしまった。

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