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「わからない」は大人のたしなみ

  中古で手に入れたじゃじゃまるのフィギュア。お気に入りです。年季が入った感じも雰囲気出しています。

   子どもが小さいころ、「にこにこ、ぷん」の「じゃじゃまる」に突然はまった時期があった。え?じゃじゃまる?NHK「おかあさんといっしょ」の有名なキャラクターだけど、なぜ今30年前のキャラクターにそんなに心惹かれたんだろう????
 その時も、今も、理由はわからない。

 「わかる」と「わからない」の勝負

 今の世の中にはなんとなく、「わからない」よりも「わかる」ほうがいいことだ、という価値観があるようだ。
 尋ねられて、「わかりません」というときはちょっと恥ずかしく感じたり、「わかりました」と言えた時はなんとなく気分がいいかもしれない。

 人はいろいろなことを「わかりたい」と思う生き物のようだ。そういう欲求があるからこそこれまでの数々の進歩があったのだといわれれば、それはそうだ、とは思う。

 また「探求心旺盛です」は「短所」というよりも「長所」に分類される気もする。

 一方、「わからない」ということは時に不安をよんだり、もやもやしたりとネガティブな感情につながっていきやすい。「このまま将来どうなるかわからない」「あの人が私のことをどう思っているかわからない」・・・そういうことを繰り返し考えていると、「はっきりわかってスッキリしたい」と思うのも自然なことのように思う。 

 はたまた、「『好き』の反対は『嫌い』ではなく『無関心』だ」、などと言われたりもする。とすると、「わかりたい」という気持ちは、愛情の一つのあらわれなのかもしれないとも思う。
 「わからない」なんて突き放されたみたいで冷たいよね、と言われると、そうかもしれない、とも思う。

 こんなふうに考えていると、なんとなく、「わかる」対「わからない」の勝負は、「わかる」に軍配が上がるような雰囲気だ。特に今は、ちょっとしたことはスマホで調べればすぐ「わかる」んだし、ちゃっちゃとわかって次にいこう、くらいのスピード感が求められているのかもしれない。

 だけど実際のところ、「わかる」ことよりも「わからない」ことのほうが、圧倒的に多い。身近な例では、やっぱり人間関係。カウンセリングでもよくテーマになる。

 ○○さんがなぜあの時あんなことを言ったのか、わからない。
 自分がなぜこうなってしまうのか、わからない。
 
 わからないから、わかろうとして一生懸命考えて、無理やりにわかろうとすると、時に、行き過ぎることがある。「○○さんが私のことを嫌いだからだ」とか「私がダメな人間だからだ」などとなったりする。そうするとそれは苦しみになっていく。
 
 「わからない」でいいのではないか、と最近思う。

 「わからない」があるということはちゃんと生きているということだ。
 ちゃんと出会って、ちゃんと自分で受け止めているということだ。

 想像してみる。

 「よくわからないな」と思うことがまったくない相手と出会ったとしたら。これは、全くもってつまらない。会う意味がないかもしれない。
 自分で自分のことをすべてわかってしまった、という瞬間が来たとしたら。これも相当に面白くない。
 他人が自分のことをすべてわかっているという状況に身を置いたとしたら。これは恐ろしい。たまったものではない。

 誰かのわからないところや、自分のよくわからないところにこそ、その人らしさがあり面白いところだ、と思うと、自分共他人とも少し余裕をもって付き合えそうな気がしてくる。

 小さな子どもが大人に質問ばかりするのは、まだ「わからない」ことそのものの面白さや楽しみを知らないのかもしれない。
 そう考えると「わからない」は大人のたしなみとも言えそうだ。
 結局、そう言っていいのかどうなのか、よくわからないけれど。
 
 

 

 

 



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