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味噌の歴史 -発酵の基本知識-㉝

味噌の先祖は醤油と同じく中国の「醤(ひしお)」

味噌のルーツは醤油と同じく、中国の「醤(じゃん)」が原型と考えられています。

「醤」についての記載は、紀元前700年ほど前の中国の古文書「周礼」にあり、魚を塩漬けにした「魚(うお)醤」、肉を塩漬けにした「肉(しし)醤」、果実、海藻、野菜などを塩漬けにした「草(くさ)塩」、そして穀物を塩漬けにした「穀(こく)醤」などの分類があり、この中の「穀醤」が醤油の原型であると現在も考えられています。

日本では縄文時代に大豆の栽培がはじまり、製塩がはじまります。

701年の「大宝律令」によると、「醤院(ひしおのつかさ)」という役所のようなものが設けられ、中国にならっていくつかの醤を作っていたという記述が残っています。

「肉醤」、「醤」が主に作られており、その中でも「未醤(みしょう)」という「未だ醤ならざる」という意味をもったものがあり、その未醤が日本の味噌の原型とされ、当時の醤は今でいう醤油と味噌の中間にあたるようなもので、官僚や貴族などの位の高い人達の宮中宴会などで酒などとともに食されていた高級調味料でした。

当時は味噌汁ように水や湯で溶いて食べるのではなく、そのまま舐めたり、豆腐や野菜に塗って田楽のように食べるために調味料として利用していました。


禅寺で生まれた味噌汁

鎌倉時代になると禅寺では中国の影響によりすり鉢が使用されるようになり、今まで溶けにくかった「粒味噌」をすり鉢でつぶした「すり味噌」が作られ、味噌汁として利用されるようになります。味噌が味噌汁として利用されるようになると、「一汁一菜」という武士の食卓の基本が確立されるようになり、大正時代まで長く受け継がれることになります。


戦国武将に愛された味噌

この頃、戦国武将の間で味噌が一気に普及します。味噌は栄養分や塩分、長い合戦に備えて腰に下げて携帯できることから陣中食、携帯食として重宝され、盛んに生産されていきます。

朴葉の上に山菜やきのこ類を乗せて、味噌と共に食す高山地方の郷土料理である朴葉味噌はその名残りで、郷土料理としての普及もはじまります。

有名な戦国武将のゆかりの地は、味噌の生産が盛んな土地が多く、武将と味噌にまつわる数多くの逸話が残されています。

真田幸村の好物は味噌で、大阪夏の陣の前に兄の信之が弟の幸村に、味噌を使用した長野県上田の郷土料理である「こねつけ餅」の原型となったものを渡したという話が残っています。

武田信玄は信州遠征に備え、農民に大豆の増産を促し、味噌作りを奨励しました。

また、伊達正宗は、日本で最初の自家用味噌工場、「御塩噌蔵」を設立し、合戦に備えたと伝えられています。

徳川家康にも味噌の逸話が残されており、当時としては異例である長寿、75歳まで生きることができた秘訣は、根菜と野菜の味噌汁を毎日食べていたことであると伝えられています。

これは栄養学的にも理にかなっており、野菜や根菜の食物繊維とビタミンなどが味噌との相乗効果により、様々な健康効果をもたらした結果といえます。


庶民に普及し、日常食になった味噌

江戸時代になると、庶民の間にも味噌が調味料として定着し、大規模生産をされるようになります。

明治に入り、大量生産を目的とした「速醸法」が考案され、全国に普及していきます。現在もその製法は残り、製造されたものが販売されています。

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