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短距離走と長距離走に適した筋肉がそれぞれあるように学習においても同様のことが言えると感じた話

 私は子供の時分から長距離走よりも短距離走が得意でした。一説によると生まれ持った筋肉の種類によって、これらの得手不得手が決まるとのことで、私の家系は短距離が得意な人たちが多いようでした。

 私が大学院の博士課程を修了するまでの軌跡に加えて、それ以外にもここ最近に取り組んだ資格の勉強などを通して、学習においても短距離走や長距離走に準ずる各人の性質があるのではないかと再認識しました──私は学習においても短距離走が得意のようでした。

 どちらが良いか悪いかという話ではなく、私が学習においても短距離走が得意と感じる理由として主に次の3点が挙げられます。

(1)1日の学習時間は今も昔も3時間程度が最大
(2)相対的に何かを習得する期間は早い
(3)代わりに何かを習得した後は一定の期間において学習をしなくなる

 私は学生の時分において、何とかして学習時間を増やそうと尽力したことがありました。ところが結局、当時と現在における最大の学習時間は変わらない状態にあります。今になって思えば、これは根性論がスポーツの世界で大して機能しないことと同様、学習の世界においても根性論が大して機能しないということでした。

 子供の頃から長距離走に適性がないことは把握していたので、長距離走の授業には参加しなかったり、マラソン大会では歩いてブービー賞を取っていました……ビリの人は給食の時間になっても到着しないので、ビリの座は彼に譲っていました。

 子供の頃は直感が働いていたからなのか、早い段階で短距離走ないしは長距離走の得手不得手を把握できていたわけですが、学習に関してはその把握が遅かったようです。学習を特別視して、直感ではなく理屈という名の根性論で押し切ろうとしていたのかもしれません。

 学生というモラトリムを終えた身としては、不得意を無理して伸ばすよりも、得意を楽して伸ばす方がよいと感じるようになりました。今後はさらに開き直って、短距離走者に適した学習を開拓できればとも感じています。

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ハカセさん
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