![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/161612872/rectangle_large_type_2_03605569eac4d1161cc7e9524a14d197.png?width=1200)
公教育が楽しいところでもいいのでは?
今日は、学びの多様化学校の研修で聞いたことと、向山の年長の子どもたちがうかがった学芸会の感想を交えて、考えたことを書きたいと思います。
めちゃくちゃ生意気なことを書きますし、不快に思う方もいらっしゃると思いますが、傍観者ではなく、当事者として関わっていきたいと思うので、今考えていることを書きたいと思います。
不登校の現状と支援の課題
研修会の中で、文部科学省からの最新の報告がなされました。
この報告によると、日本の小中学校における不登校の児童生徒数は11年連続で増加を続けており、2023年度には過去最多の約36万6千人に達しました。
特に宮城県は不登校率が全国でも高く、深刻な状況が続いています。
中学校では約15人に1人が不登校という現状は、標準的なクラスで言えば、クラスの中に2~3人の生徒が不登校の児童生徒さんがいるという現状です。
このような中、相談の場所や支援体制の充実が求められていますが、支援の普及速度が不登校数の増加に追いついていないという課題があるようです。専門機関や担任の先生による支援を受けている子どもたちが95%以上いる一方で、5%の子どもたちは支援が届かないままです。
宮城県内では教員たちが限られたリソースの中で奮闘しており、その努力は直接お会いする先生方のお話からも推察できます。
素晴らしい先生方もたくさんいらっしゃり、ときにプライベートな時間を削ってまでも、子どもたちのために心を砕いている先生も数多くいらっしゃいます。
しかし、現場での支援体制の限界が公立学校における教育課題をより浮き彫りにしています。
学芸会を通して見えた疑問
少し話題を変えて、本日、向山こども園の年長さんが小学校を訪れ、学芸会を見学させていただきました。
とても丁寧に受け入れをしてくださり、本当に感謝です。
しかし、そこで、旧来からの学びのスタイルが持つ課題を再認識する出来事がありました(せっかく受け入れてくださっているのに、少し批判めいたことになる部分がありすみません。ただ、学校運営委員の一員でもあるので、しっかりと整理して書きたいと思います)
1年生が一律の服装を着て、決められた振り付けで踊る姿は、一見、整然として美しく見えますが、その一方で「自分で考える余地」が垣間見える場面はほとんど見られませんでした。
発表は完成度が重要視されているように感じましたが、私たちが大切にしてきたプロセスや創造性、対話や協働性は評価の対象になっていない印象を受けました。
教育現場の窮屈さと制度の問題
さらに、全校生徒を前にした緊張感が漂う中、教育現場の厳しさと制度の硬直性が垣間見えた場面がありました。
1年生が並ぶのに少し手間取っていた時に、他学年の生徒さんが、おしゃべりをしていました。
私たちから見れば、休憩時間のおしゃべりという印象で、決して大騒ぎしたり妨害をしているような雰囲気はありませんでした。
しかし、生徒を静かにさせるために長々と講話をする先生がいらっしゃいました。かなりピリッとした空気感になり、子どもたちは静かになりました。この姿を見て、若手保育者は「軍隊みたいなところだなと思いました」というストレートな感想を教えてくれました。(期せずして、リヒテルズ・直子さんの講演の中で語られた、現代日本の公教育の歩みと合致してしまいました)
この講話があったことで、こども園の子どもも含めてピリピリとした緊張感が体育館全体に広がっていました。
そんな、会場の雰囲気が氷点下まで下がってから、ステージに上がる卒園児を含む1年生の子どもたち。
自分だったら、結構きついな~なんて思ってしまい、なんだかいたたまれない気持ちになってしまいました。
この状況から、小学校での形式的なルールに疑問と違和感を感じてしまいました。
これが大人向けのイベントだったらどうでしょう?
「さぁ、これからやるぞ!」というイベントの前段で、司会者が会場にいるお客さんに説教をする姿を、私は見たことがありません。
むしろ、『前座で盛り上げ、演出で期待感をあおったりして、会場が暗転。スポットライトが一斉にステージに向けられて、一気に会場のボルテージが上がって、アーティストが登場!!…』というのがうまいイベントの運び方なのかな?とおもっているので、何のために、会場を凍り付かせたのか、同じ教育者として、私にはちょっと理解ができませんでした。
現代の公教育は多様な保護者や社会の期待や意見に応じる必要があり、中には変化を望まず、軍隊のように教師のいうことを聞くことを求める方もいる中で、学校全体が自由に動けなくなっている部分もあるのだろうなと推察します。
子どもたちの本来の力と教育の在り方
また、子どもたちの行っている演目も、何が育っているの読み取りにくいものでした。
年長の夏休み明けの子どもたちですら、リトルオリンピックに向けて、自分たちで役割分担をして創意工夫を重ね、対話を通じて問題を解決していく力があります。
1年生なら、もっと多くのことができるはずです。
決められたことをただこなすだけでは、子どもたちの創造力や主体性は育たないと思ました。
もちろんねらいが、「大人に言われたことを正確にこなす」ということであれば、ねらいに沿った方法だと思いますが、今の社会の中で求められていることなのかな?と疑問を抱かずにはいられません。
私たちが幼児教育の中で育んだ力は、どこに使われたのだろう…と、さみしく思いました。
多様な選択肢と教育者のマインドセットの変革
こどもの周りにいるモデルが変わっている
現代の教育には、効率的で単一的な仕組みだけでなく、多様な選択肢が求められています。
現代社会の大人たちが多様化している今、教育もその変化に対応しなければなりません。
例えば、向山の職員を見ても、ご家族が転職をしたり起業したりと多様な働き方を選んでいます。もちろん、伝統的な企業(JTC-Japanese Traditional Company-)に勤務する方もいますが、その数は減少しているように感じます。というより、JTC自体が減っていると思います。
したがって、JTCに最適化した軍隊的で画一的な教育は、子どもたちにとって身近な大人像とはかけ離れているのではないでしょうか。
これが、不登校の問題の根幹の一つになっていると私は考えています。
すべての子どもたちに同じ教育を提供するだけではなく、個々の興味や得意を伸ばす場を提供し、子どもたちが自発的に学びたくなるような環境を作ることが重要なのではないでしょうか?
教師のマインドセットとは
文科省の統計では、15人に1人が、公教育に対して拒絶しているという現実があります。
こども園で、園児の7%が来られない保育をしていたら、次の年には、だれも入園希望者がいなくなってしまいます。
私たちは、「仕事」として教育現場に立っています。
子どもたちや保護者に迎合するということではありませんが、「もっとやりたい!」「もっと学びたい!」「明日もいきたい!」という前提があって初めて教育は成り立つのではないかと思います。
なぜなら、教育は、型に押し込むものではなく、一人一人の力が引き出されて行くものだからです。
私も私学の教育現場にいる身として、自分にブーメランのように返ってくる言葉だとわかったうえで、あえて「教育施設は子どもたちが行きたい場所であるべき」という言葉を書きたいと思います。
教師のマインドセットとして、自分が運営するクラスや行事の子ども側に立った時に、『お金を払ってでもその場にいたいと思えるかどうか?』というシンプルな問いを、自分にも問い続けたいと思います。
こうした観点で教育活動を見直し、子どもたちが喜びや達成感を感じられるような教育を提供することで、学校に行く意欲を高めることができたら、素敵だなと思います。
幼児教育側から、そして、一般市民として、何ができるのかを考えていきたいと思います。