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肯定と認める



麻を舐める達人 #HNKS03 のエピローグです。



肯定することと、認めるということは、似て非なるものだと思います。

「肯定」とは、今の自分が納得する形にすること、いわば過去を変える作業のことなんじゃないでしょうか。

例えば、好きな子に振られたときは悲しくてしょうがない、でも時間が経ち、新しい出会いがあったときに、「あれがあるから、今がある」と思えることで、悲しかった思い出を、よかったと思える出来事に変換する、みたいなことです。

「認める」とは、そのままの形で受け止めること、理解できなくても、消したくても、そのまま残す。ある意味それをカルマとして受け入れることなんじゃないでしょうか。日記とかもそうですが、その気持ちを保存する媒体がラッパーの場合「音楽」なのかなと。

自分の失敗を嫌な思い出のままとっておくことは、なかなかできることじゃありません。だから肯定することは悪いことだ、なんていうつもりはありません。どちらもとても大切なことです。


ただ、個人的に「認める」というのは多様性において、とても大切なポイントになると思います。「理解すること」と「認めること」をはき違えてるままでは、いつまでも多様性はなし得ないと思います。

自分にとっては特別、というか普通の事でも、その人にとっては当たり前のことは世の中にはたくさんあります。海外にはご飯を手で食べる文化の人たちもいます。その人達からすれば、箸という細い枝のような棒を2本使い食べている私たちの方が、おかしく映るはずです。

今の自分に分からないものを、わからないまま保存できる人が世の中には多くないように思えます。わからないものに出会ったとき、理解できるかできないかという処理をしてしまいがちです。どちらかに分けて、理解できるものは受け入れ、称賛するが、理解できないものは受け入れられず、批判する。

そうすることで起こるものが論争です。正直論争の99%は意味のないものだと思っています。だってどちらが正しい以外なにも生みませんから。その論争に勝ったところで、得れるものは論破したという何の役に立たない事実だけ。生産性のカケラもないと思います。

LGBTなどの性別の問題を筆頭に、政治の問題、SNSの問題など世の中には自分が理解できないことにあふれています。だからこそ「認める」という力が生きてくると、そう思います。

別に理解しようとしなくていいんです、わからなくていいんです。そんな「分かってあげたい」という気持ちも人によってはプレッシャーになり、傷つけてしまうこともあります。まずは「理解しなければいけない」という幻想から解放されることが大切です。別に理解できなくてもいい関係を築ける方法はたくさんあります。そのひとつが「認める」というモノです。

今わからなくてもいつかわかる時が来るかもしれない、その時にわかればいい。わかるべくしてわかるときまで待つ。なんでもすぐに手に入れられる時代だからこそ、「待つ」というのはとても豊かな行為なんじゃないかと、多様性なんか言葉より、よっぽど優しくて大事な考え方だとおもいます。



その時が別に来なくてもいい。わかるときまで、待つ。それまでは認める。


それが、この生きづらい時代を生き抜く、一つの武器です。


#配送あるある #HNKS #メクソメモ

#熟成下書き #習慣にしていること

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