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アクションへの誤解
最近、テレビを見る度に「Good For the Planet」や「地球にいいことを」などのセリフと共に、SDGsの説明や地球にやさしい暮らしを実践している人の紹介などを見かける。なんとなく私が日テレばっか見てるのが、バレそうで恥ずかしい。
ともあれ、多くの人が目にするメディアにそんな情報が載ることで、ある程度の効果は見込めそうな気がする。社会問題に気がつき、それをどうにかしたいと考えることは、何よりも尊い事であり、そう考える人が一人でも増えれば、世界はもっと面白くなるとも思っている。
しかし、それだけでは根本的には何も変わらないのではないか、とも思う。解決したいという気持ちだけで物事が進んでくれるなら、そもそも社会問題にはなっていないし、そんな世の中ならこの世界を牛耳っているのはメディアということになる。恐らくそうはなっていないのだから、人にアクションを起こしてもらうことは、果てしなく難しい行為だとわかる。
メディアはきっと、火がついているものを大きくすることはできても、火をつけることはできないのだろう。だから自分が信じているものを取り上げ、多くの人の目につくところに乗せ、風を送るのだ。人は一番目にはなりたがらない代わりに、後発に遅れるのは嫌なものなので、このような煽り方は案外的をついているようにも思うし、形は変われどメディアの持つ本質は変わらないのは、人間の習性を捉えたものだからだと考える。
そのように煽られた者たちの一番に動く部分、それは気持ちである。それを成しただけで十分偉大なことだとは思うが、気持ちだけでは意味がない。気持ちが大事なのは間違いないが、そこばかりに神経を注いだとしても、結果が出ないことは明白である。どんなに立派な考えや想いを持ったとしても、「その想いを胸に、何をしましたか?」に答えられなければ意味がない。
行動が伴わない人間の言葉には、誰も耳を貸さないもので、影響を受けたものが次の誰かに波及できなければ、裾野は一向に広がらない。パンデミックは起こらない。コロナ対策が日を追うごとに効果が弱まるように見えるのは、発信側に問題があるのではなく、それを受けた者が次へ波及しないからだ、と勝手に思っている。
結局、世の中アクションが全てなのである。しかしながらアクションという言葉聞くとなんだか委縮してしまうのは、私だけだろうか。「貧困の現場にいって子供たちに教育をしました」だとか「団体を立ち上げてこういう活動をこれからしていきます」だとか、「SDGsを生活に取り入れ、日々実践しています」だとか。
アクションという言葉を聞いて見えてくるのはこのようなイメージばかりである。実にハードルが高い。そんな大層な事できるのは一部の人間だけだと、私は思ってしまう。
この部分が社会問題におけるネックなポイントだと日々思う。アクションを起こすというワードそのものが、ものすごく意識高い系なものに聞こえてしまうのが、とてもよくない。社会問題を問題化させる見えない要因のようにすら思える。つまり「私にはできないもの=関係のないもの」と思わせてしまうこと、この参加のしずらいイメージを払拭しない限り、社会問題は前進しない。
この「アクションを起こす」という言葉の持つ権威を剥がし、フォーマルなものではなくラフに親近感を持たせるには、どうすればいいのだろうか。これは色々な物事にも当てはまる問題であり、とても難儀なことのように聞こえるが、実はここに大きな誤解がある。実際のところ、アクションを起こすのは本当に簡単なのである。この誤解が認識になっているのが、何より厄介なのだ。
だって、アクションとは、何かしら動けばいいだけなのだから。
アクションとは行動であり、読んで字のごとく「動く」こと。多くの人は、行動を起こそうとした時に「どういう行動をするのか」をまず設定する。無意識でできることに対しては人は関心を寄せない。だから動こうとした時点で関心はあるのだ。しかしながら、この時点で大勢が犯す過ちだと思うのが「目的を行動に据えてしまう」ということだ。
具体的な例を見てみよう。
まず「ダイエット」をしたいと思ったとする。その時にする行動を「痩せること、体重が落ちること」に設定すること
これが誤りだ、ということだ。
これが「行動を目的化する」ということであり、ハードルが上がってしまう一番の原因だと思う。行動と目的は分けるに限る、行動をする理由は、プロセスを踏むためであり、目的達成のためではないからだ。でなければ自分で自分のやる気をそぐことになりかねない、自分を腐らせるのはいつだって自分なのだから。
だからこそ、自分の些細な行動に目を向け、目的に結びつけることが必要だ。自分の行動をもっとよく見ること、足もと確認。行動の解像度を限りなく高くし、細分化しハードルを下げまくるが誤解を解くカギになる予感がしている。
さっきのダイエットの話に戻ると、
「痩せよう」と思い、座っている状態から立ち上がること
これでさえも行動なのである。
それでいいのだ、行動とは簡単にできることだという理由はここにある。言ってしまえば、多くの人が行動だと思っていること、それは行動ではなく「目的」なのである。目的を達成するためにするのが行動であって、目的そのものを行動化してしまうのは、悪い癖である。目的と行動のサイズ感は全然違くて、行動の実寸はアリくらいのものだと、まずは知るべきなのである。
行動に移せない人の認識は、きっとこうなっていると勝手に思っているが、なぜこうような思考になってしまうのだろうか。そうなる原因として、一番に考えられるのは「自信がないから」。しかし、これではまだ答えは半分だと思う。恐らくだが、行動に移せない人の特徴は「自分に自信がない癖に、そんな自分には期待をしているから」だろう。
自分に自信がないのも、そんな自分に期待しているのも、恐らく何もしてこなかったからであろう。正確には言うと、アクションは数えきれないほど起こしているのだが、自分で行動を目的化しハードルを上げたことで、たくさんのアクションを見捨ててきた、ということだ。
そういう人は、自分が見たいものの中に閉じこもり、見たくないものを見て見ぬふりをする。傍観者は楽なのだ、アクションをしない方が身も軽い。しかし、傍観者は誰にも目を向けられない、いないも同然だ。見たくないものを見たい人など存在しないが、見たくないものに目を向けないと何も始まらないのだ。しかし、見たくないものの見方は誰も教えてくれない。その方法は自分しか知らない。
それが分からない人たちには、まず「自分に期待しないこと」をお勧めする。次の言葉をぜひ自分の胸の内に問いかけてほしい。ある種これは自戒でもある。
「何をそこまで自分に期待しているのかは知らないが、目的そのものを行動に移せるほどあなた優れてないし、意志も強くないよ」
「自分に期待しない」というのは悪いことではなく、むしろいいことだ。自分に期待していたら、いつまで経っても現状維持だ。自分への期待感を下げれば下げるほど、生きやすくなるし自信もつきやすくなる。
上手くいかないのが普通、だって私なんだもん。
こう思えれば、自分に寛容になれる。寛容になれれば余裕が持てる。ハードルを下げているので成功や行動の達成は身近になり、余裕もあるので簡単に成功体験を積める。こうやって自信をつける方が遙かに簡単だし、自信のある人のところに仕事は集まる。余裕は自信のガソリンであり、結果へのナビゲーターなのだ。うまくいってないと余裕が持てないと思っている人たち、ここに裏ワザがある。
言ってしまえば、「自分に期待しない」のも立派なアクションである。まずは自分を赤ちゃん同等のものだと思って、とりあえず生きてみようもアリである。そこまで行かずとも、できる自分に期待してはいけない、いいことはないからだ。やればできる子でも、やらなきゃできない子でもなく、私たちはやってもできない子だ。その設定で生きてみるといい、行動の期待値が下がればこっちのものだ。アクションを起こすのが簡単だと思えたら、いつの間にかやればできる子になれているはずだ。
正直なところ、人間は毎日信じられないほどアクションを起こしている。人間は行動せずにはいられない生き物なのだ。だから、「アクションを起こそう」なんて思わなくていいのだ。これ以上アクションを起こそうとすればタスクが渋滞し、日々のこともままならなくなる。
だから変えるのは意識だけでいい。認識を変えよう、誤解を解こう、世の中のイメージを書き替えよう。これらのアクションに体は必要ない、脳みそさえあればいい。そして、今この瞬間からでもできる大切なアクションだ。
体を動かせないなら、手を動かそう。
手を動かせないなら、目を動かそう。
目を動かせないなら、頭を動かそう。
意識が変われば、きっとアクションと友達になれる。
いや、そうではない。
アクションまみれのこの人生、アクションこそ自分自身なのである。
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