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三四郎の雲
なるほど白い雲がおおきな空を渡っている。空は限りなく晴れて、どこまでも青く澄んでいる上を、綿の光った様な濃い雲がしきりに飛んで行く。風の力が烈しいと見えて、雲の端が吹き散らされると、青い地が透いて見える程に薄くなる。あるいは吹き散らされながら、塊まって、白く柔らかな針を集めたように、ささくれ立つ。
―― 夏目漱石「三四郎」の一節である。三四郎と美禰子は、度々、ふたりで雲を眺める。最初は、広田先生の引っ越しを手伝った時、二階の掃除の手を休めて。次に、菊人形見物の雑踏を逃れて小川の縁に腰を降ろして。最後は、美禰子の声も混ざっているだろう讃美歌を耳にしながら会堂の外で。この時は三四郎のみが寒空を見上げて、迷羊を思う。
いつも、美しい描写がある。
見る、も、聴く、も、光や音波をとらえるそれぞれの器官からは、美しい、という感慨は生まれない。
美しいと感じるのは、意識である。
といえば、そんな気もするが、では、意識とは何なんだ? と問われれば、答えようがない。
人間がフィジカルな存在である以上、脳という器官のなんらかの情報処理や、身体全体のそれぞれの臓器が放出するホルモンのネットワークが、統合的に融合した結果、などとして、その内、解き明かされるのかもしれない。(自分に知識がないだけで、もう解き明かされているのかもしれないが。)あるいは、わたし達は本来、もっと高次元的存在で、意識は、3次元世界では解明できない次元と繋がっているのかもしれない。
昨夜は眠りにくい程、風が強かった。ゴウゴウと風の鳴る音に、幾度かおぼろげに意識が浮き上がってはまた沈むような経験をした。今朝になってみれば、一転、うららかな春の日差しだ。風も穏やか。昨夜の暴風は、季節が入れ替わる舞台の大回しだったのにちがいない。
昨夜、よく眠れなかったせいもあって、暖かい陽の注ぐソファーでうつらうつらする。
荘子が胡蝶の夢をみたのもこんな日和だったろう。
愛犬と、いつもの散歩道を曲がる。角の桜はとうに散っていて、瑞々しい若葉に代わっている。
妻の入れてくれた紅茶の匂いが、うたた寝の夢と入れ替わった。
「今、〇〇と散歩したよ」
ずっと以前の初夏だった。
時間旅行をしたのかもしれない。
意識は、3次元を離れて、時間軸を自由に行き来できるのだろうか?
こんなふうにソファーで目覚め、明るい陽の中の紅茶の表面がわずかに揺れる様子は、今現在の視覚情報処理だろうか? あるいは、今の視覚情報と過去の類似記憶が入り混じったものだろうか?
デジャブ(déjà vu)。
初めて見るはずの景色なのに以前に見た記憶がある体験のことだ。
意識が一瞬、現在を抜け出して、時間の中を迷ったような感覚。
視覚情報は、網膜で受け取られた後、まず、視神経を通じて後頭葉の視覚野に送られ、そこで画像として認識される。その情報は記憶を司る側頭葉に伝達され、過去の記憶と照合される。
通常、新しい情報が、現在と認識されるが、デジャブでは、一番新しい情報が側頭葉に届いたときには、同じ情報が既に存在している、という倒錯が起こる。
朝一番で登校したはずが、もう机に座っているドッペルゲンガーに出くわす。
そんな現象だ。
「だれ?」
「君の意識さ」
夜の間、無人だった教室の空気は澄んでいる。
「ほんの少しの未来から、時間を遡って先回りしてきたのさ」
―― 身体のメカニズムが知覚情報を処理するが、それを、美しい、と判断するのは、意識、という別物だとするのは、オカルトだろうか?
例えば、モネの絵は、それ自体は絵具の重なりで、鑑賞者の視覚はその光の反射をとらえているに過ぎない。水面に映る「睡蓮」に、移ろう時間の一瞬の詩的旋律を感じることができるのは意識があるからだ。
バッハの旋律に、荘厳な数学的構造を感じるのも意識だ。
絵具の重なりが単なる色ではなく、時間の流れや情感を生むのと同様に、五線紙の記号も、単なる音符ではなく、響きの世界を生み出す。
バッハはそもそも楽譜に何を記したのだろうか?
楽譜自体は音を奏でない。
バッハが五線紙に表した記号はどこから来たのだろうか?
意識だ、とすれば、意識とは一体、何なのだろう?
モネは絵具を重ねて風景を写したが、デジタル写真のように再現したわけではない。観察にも、鑑賞にも意識が介在する。モネが観察した時、それは存在し、鑑賞者が画を観た時も、それは存在する。同じものではないが、物質とは言い難い何かで、意識、としか呼びようがない。
量子の世界では、観測されるまで現実は定まらないという。
このコペンハーゲン解釈にはどこか哲学や宗教に通じる匂いがある。
宇宙と意識は、量子レベルでもつれているとまで言っていいのかどうかわからない。
わからないが、そう思うと少し救われた気持ちがする。
満天の星空を仰いで、美しい、と感じないひとはいない。
美しい、を、正しい、と言い換えてもいい。
道徳的な正しさ、だ。
星空を汚す行為を、正しい、と感じるひとはいないだろう。
誰しも、美しい星空に心を打たれるように、明らかに間違っているものを前にしたとき、それが間違いだと直感する。
美しいものは文句なしに美しく、正しいものは文句なしに正しい。
モネの絵を前にして、優しく、清らかにありたくなる。
バッハの音楽を浴びて、堂々と凛とありたく願う。
正しさ、正義、について語ることは難しい。
しかし、これは決して正しくない、と、感じる、ことは易しい。
イマヌエル・カントは、物理法則があるのと同じように道徳法則があると前提している。ひとは、学習を重ねて自らの行動を改め、この道徳律とのギャップを埋めていき「目的の王国」にたどり着くのだ。
TV画面に、ウクライナの戦場の様子が映っている。
「この後、死体の映像が出ます」
と、注意テロップがでる。
ウクライナの戦場の空にも、雲は流れている。
飛び交う銃弾に身をすくめなければならない両軍の男女の兵士たちは、それを見上げるだろうか。
「安心して夢を見ている様な空模様だ」
「動く様で、なかなか動きませんね」
田端の小川の縁に座った三四郎と美禰子のように見上げていてもよかったはずの雲だ。
ミサイルがそれを横切る風景は、間違っている。
―了―