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連載小説『私の 母の 物語』十 (57)
わたしもまた観念の遊戯をしているにすぎないのかもしれない。
(いや、しかし、母の《生》がわたしでも家族のためでもなく、母自身にとって意味あるものであるためには、わたしが母とどう向き合うべきかを考えることが必要なのだ。だから、これは真剣な遊戯なのだ)
わたしの中でもう一人の自分の声がする。
そらそれが、腹いっぱい食った人の理屈さ。
学生時代読んだチェーホフの『かもめ』の台詞だ。もう話の筋もほとんどわすれかけているのに、この台詞だけが妙に頭にこびり付いている。恵まれて育ったという自覚が強い。そのせいか、何かもっともらしいことを云おうとしたときに、ときどきふとこの台詞が浮かんできて冷や水を浴びせる。
もっとも毎日哲学もどきをしているわけではない。一つのことだけを一貫して考え続ける思考力はわたしにはない。むしろ歩きながら頭に浮かんでくる大半のことは空想や妄想の類である。
散歩で毎日同じ公園に通うようになって、わたしは花の季節以外の桜をじっくりと観る機会を得た。うすべにの花びらの絨毯を踏みしめ、むらさきの小さなさくらんぼを見上げ、みどりの葉陰に憩い、くれないの照葉を愛でる。今まで意識しなかった桜の姿を見られたことは、散歩のたまものであった。中でも特にこころ動いたのは、桜の花芽を観たときだ。わたしは桜の花芽というのは早春に芽吹くものだとばかり思っていた。しかし、実際はもう夏から花芽は用意されている。あの爛漫の華やかさが長い雌伏のときを経てもたらされていると気づいたとき、花の盛りでない桜も愛おしくなって、知らず知らず桜の幹を撫でる習慣がついた。「今日もまた健やかに」わたしは桜に囁くようになった。
ところがあるとき、何気なく撫でた指先でペキリと音がして、太い幹から直に出ていた小さな花芽が折れた。そこに咲く花はわたしが特に気に入っていた花であった。分岐した枝の先に咲く花ではなく、幹に咲く花。目の高さにあるその花を母と二人でながめていると、蜜蜂が蜜を採りにやってきたこともあった。
ふいにわたしは、桜の怨嗟の声を想像した。
(返せ、返せ。花を返せ)
(ゆるしてください。わたしには花を返すことは出来ません)
(奪ったものを返すのが自然の摂理だ)
(しかし、折れてしまったものは元どおりには出来ません)
(同じものを返さなくてもよい。花と同等のものであれば)
(花と同等のもの? それは何でしょうか?)
(うむ・・・・・・。おまえには妻も子もおらぬな。ならば母がそうなろう)
(母親とは母のいのちですか?)
(花とは花のいのちだ)
(どうかそればかりはお許しください。わずか一輪の花の代償に人のいのちとはあまりに酷いではありませんか)
(おまえが奪ったのは一輪の花のいのちではない。花芽なのだ。その花芽には毎年花が咲くはずだった。わずか一輪とは云えまいよ・・・・・・)
(おっしゃることは解ります。おっしゃることは解りますが、どうかいのちだけは、母のいのちだけはお助けください)
(うむ・・・・・・。ならば、いのちに次ぐものをいただこう)
(いのちに次ぐものとは何でしょう?)
(さあ? 考えてみるのだな。いのちに次ぐものとは何か。おまえの母のいのちとは何か。それが花芽を奪ったおまえの報いだと思え)(続く)