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連載小説『私の 母の 物語』十 (55)

                十

 環境の変化は母に混乱をもたらす。二、三日の旅行ならばそれほど影響はなかったが、姉のところに行って帰ってきた母はしばらく自分の居場所が分からなくなる。といっても普段話しているときにここが何処だか分からなくなることはない。夜中や朝目覚めたときに「ここは何処?」となるらしい。
「おとちゃん、はよ家へ帰ろらよ」
「帰ろらって、ここは家やいしょ」
「ここはあがらの家とちゃわいしょ」
「ここはわがらの家やいしょ」
「ここは幸彦の家やいしょ」
 こんな会話が二週間ほど繰り返される。しばらく姉のところにいた間に、この家で積み重ねた月日がリセットされて、また山あいの町にいた頃の記憶にもどるようだ。母にしてみれば、小諸の姉のところから山あいの家に戻ったつもりが、目が覚めると様子の違うところにいる。ところがここが自分の家だと云われる。いったいいつからここが自分の家になったのか、訳がわからない。
「何や何やらわからんよ」
 母がときどき云うことがある。もうもやして頭に霧がかかったような状態なのだろう。こんなときは喋ることもちぐはぐで、動作も緩慢に感じる。
 冬になれば、寒がりの母はきっとまた歩かなくなるだろうから、気候のよい秋のあいだに一緒に散歩しておきたいのはやまやまだったが、こんな状態の母を散歩に連れ出すわけにもいかなかった。

 一方、わたしの散歩は雨の日も風の日も続いていた。健康のために始めた散歩だったが、歩いているうちにそんなことはどうでもよくなっていた。
 何かのためではなく、何処を目指すでもない。ただ歩くのが目的。歩くという手段をつかって、歩くという目的をはたす。それはどこか国語に似ているような気もする。ことばという手段をつかって、ことばをつかうという目的をはたす。
 ふとわたしは、子どもたちに「なにかのための国語」を教えようとしていたのかもしれないと思った。
(それは眠たいことだなあ・・・・・・)
 わたしが純粋に歩くということを楽しめるように、子どもたちが純粋にことばと触れあうことそのものを楽しめるような国語、そんな国語が出来ないものか・・・。
 具体的な手段は思い浮かばなかったが、そんな国語がしたいと思った。

 逍遙学派、ということばを聞いた記憶がある。たしか学生時代、一般教養の哲学の講義のときだった。ことばだけを覚えていて、そがどんな学説を説いたものか一向に思い出せないが、ぶらぶらと歩いていると誰でも哲学者のようになる。ぶらぶら歩きながら無心でいるなどということはおよそ不可能だ。(続く

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