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文学の持つ力

「テヘランでロリータを読む」
アーザル・ナフィーシー 市川恵里(訳)

 「この本はいい本だよ」
とある人が言っていたので、購入して読んでみた。
本当にいい本だった。

 少しでも世界の情勢を知っていれば、このタイトルの意味は知れよう。
イスラム革命後の全体主義国家となったイランで、「堕落、退廃、悪徳の象徴」である英米文学に親しむことが、しかもそれが女性であることが、どれだけ危険なことであったか。

 教員を務めていたテヘラン大学に反発を感じて退職した後、教え子だった数名の女学生を集めて行った、秘密の読書会。
内容は、実は何重にもなっている。
・回想録
・文芸批評
・革命後の当局の圧政の告発
・文学の意義
…などなど。
アメリカに留学していた学生時代から、テヘラン大学で教鞭をとり、やがて戦争、さらに過酷な革命政権の時代、大学をやめ、静かに密かに、現実に抵抗する。そして、いつでも著者の傍らには文学があった。

 革命後のイランはイスラム教を中心とした全体主義社会となり、厳格な原理主義は欧米の文化を悪と断じて排除し、特に女性の権利と尊厳は踏みにじられるがごとき扱いとなる。信じられない罪状で女性は逮捕され、処刑される。
夫でない男と一緒にいた(!)、化粧をした(!!)、美人すぎる(!!!)。その不条理さと、刑の残酷さは筆舌に尽くしがたい。「ロリータ」の、幼い少女に自らの欲望を押し付けて抑圧するハンバートの犯罪は、国家のイデオロギーを一方的に押し付けて国民を抑圧するイスラム主義の政府の行動と一致する。

 この書を通して、人にとっての文学の価値が語られる。それは、
現実を超えた世界を体験させてくれること。
現実では不可能な、何人もの人物の体験を共有させてくれること。
他人に共感する力を養ってくれること。
ナボコフ、フィッツジェラルド、オースティンの作品を読みながら、登場人物を解釈し、現実の自分たちと重ね合わせる。その中で自分の考えを育み、自分の思考をすることができるのだ。

 人類にとって、なぜ「物語」が必要なのか。理論物理学者ブライアン・グリーンは著書「時間の終わりまで」である仮説を紹介している。「物語」は、人類が様々なシチュエーションで生存するための、とるべき行動のシミュレーションである、ということだ。「物語」の祖を神話であると考えると、カール・グスタフ・ユングが神話素を集合無意識と結び付けたことも、生存のために備わった装置であると解釈できるし、クロード・レヴィ=ストロースは神話を、混沌として不合理な自然のふるまいに意味を与えて知的に解釈しようとしたものと考えた。暴虐な自然の前に、事前に備えておくべきことをシミュレーションするための「物語」。これが発展して、文学というものが生まれたと考えてもよいのではないだろうか。

 様々な文学作品を読み、様々な登場人物に共感し、様々な考え方、感じ方を学ぶ。様々な思考は、現実と照らし合わせて、正常なのか異常なのかの判断のシミュレーションとなる。だから独裁政権は文学に恐怖する。

 テヘラン大学で教鞭をとっていたとき、ある男子学生が著者に抗議する。
「欧米の文学は享楽的で退廃的で不道徳だ。崇高なイスラムの社会には敵である。」と。それを受けて著者は怒る。それは文学を否定されたからだけではない。
「それはあなたの考えなの?国家に押し付けられたことを、無批判に繰り返しているだけではないの?あなた自身の考えはどこにあるの?」



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