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ファンタジーと残酷

「ティファニーで朝食を」
トルーマン・カポーティ 村上春樹(訳)

 ブレイク・エドワーズ監督の映画「ティファニーで朝食を」は、観た。
上品なラブコメで、オードリー・ヘップバーンの美しさに魅了される。が、
私は原作のほうが好きだ。村上春樹も書いているが、オードリー・ヘップバーンにはホリー・ゴライトリーのイメージがない。

 作家志望の主人公「僕」の、回想によって語られる物語は、一人の女性のことを中心に展開する。ホリー・ゴライトリー。駆け出しの女優で、彼女を誘う金持ちの男どもが差し出すチップやプレゼントを当てにし、いずれ金持ちと結婚したいと夢を見ている。刑務所に収監されている老人の話し相手になるという奇妙なアルバイトにも手を出し、そして自宅に多くの人を呼んで夜な夜なパーティーをする。

 彼女は女優業をしているようだが、それに関してはあまり向上心があるとは思えない。自立するというよりは、むしろ誰かの庇護を受けることを望んでいるようだ。レズビアンの友達を作って同棲したい(家事をやってくれるから)だの、金持ちの男と結婚したいだの、レストルームに行くたびにおじさんたちがチップをくれる、だのという願望は、彼女が「救いがたい夢想家」であることを語っている。

 そんな彼女の周りにやってくる男性は後を絶たない。「僕」もどうやら恋をしたようだ。だが、本人も述べているように、熱烈に恋をしている、というわけではなく、「子供の頃に家政婦さんに抱いた恋心」に近い感覚のようだ。もちろん、大人の男になった今は、多少の性的な思惑もあるのだろうが。

 なぜ、彼女はこんなにも魅力的なのか。猫のように自由で無邪気な彼女の、19歳(やがて20歳)という年齢は、充分に大人か、せいぜい多少の子供心を残した大人、のはずだが、ホリー・ゴライトリーは、成熟した子供なのだ。大人の真似をしようとしている子供が、そのまま大人になった、ファンタジーの世界なのだ。生き馬の目を抜くニューヨークという都会の片隅で、このイノセントを保持したまま自由に生きている美しい女性は、くたびれた男どもにとっては、まさに得難い宝飾品なのだ。

 彼女はなぜ、子供のまま大人になったのか。もしかすると、ドクのせいなのかもしれない。14歳の彼女を妻に迎えた男。徹底的に甘やかされて暮らした日々で、彼女の人格は完成されてしまったのではないだろうか。
 一方、14歳以前の彼女のことはわからない。彼女も語らない。兄「フレッド」と、どうやら放浪の生活をしていたと思しきところはある。冒頭、「僕」の部屋に上がり込んできて、やがて眠ってしまうところで、つぶやいた寝言がほのめかすのだ。「いやったらしいアカ」、彼女を襲う「アングスト(不安感)」は、その頃からつきまとう、もしかすると死への恐怖、かもしれない。

 そのような影と、その反動かもしれない現在のふるまいと、子供っぽい人格、それらが、屈指の魅力的なキャラクターを作り出した。誰もが彼女の幸福を願わずにはいられない。彼女はあのまま、美しく幸せに歳を重ねることができるのだろうか。マダム・スパネッラのような人に攻撃されたり、排除されたり、あるいは悪党に食い物にされたりせずに。それとも…。

 だから、あの映画は、ちょっと違うな、と思う。オードリー・ヘップバーンは、完璧な素晴らしい大人なのだ。

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