現実の悪意に抗う悪態
「あくてえ」
山下紘加
書店で表紙のイラストの、刺すような視線に射抜かれ、すぐに手に取って購入した。装丁=山影麻奈、挿画=須藤はる奈。
昔からレコード、CDをジャケ買いするのが好きだった。そして、選んだものは大概は当たりなのだ。
小説家を志望する19歳の主人公「ゆめ」は、1994年生まれで2015年に文壇デビューしている作者の分身なのかもしれない。
ゆめを取り巻く現実は鬱憤の溜まりまくるものだ。父親は外に女を作って出ていった。父方の祖母である「ばばあ」はなぜかゆめと母「きいちゃん」と一緒に暮らすことになる。90歳になる「ばばあ」は身勝手で、きいちゃんの世話に甘え、その上きいちゃんを悪し様に言う。ばばあのふるまいに日常がかき回される。それでもきいちゃんは献身的に世話をする。ゆめはそんな母親の姿も耐えられないと思っている。少しの希望はあるが、それでも日々の怒りは高まっていく。そんな時々に、悪態をつく。怒りに感情をあらわにする。たまったものを一気に吐き出すように。
人生は苦だ。お釈迦様は正しい。しばしば、自分に全く責任のないことで自身が苦境に立たされる。そんなときに「そういうものだ」とカート・ヴォガネット.Jr のようなことを言える達観した人物は稀だ。我々は舌打ちと悪態をついて対抗する。対抗の仕方で一番手っ取り早いのが、言葉を発する事だ。祝詞や呪詛を持ち出すまでもなく、発せられた言葉は魔術的な力を持つこともある。悪態は、自己の精神を攻撃から守る心理的自己防衛の一種と言っては、考え過ぎだろうか。
ゆめを取り巻く人物は、すべて寄ってたかってゆめの鬱憤をためていく。ばばあも、出ていったクズの親父も、ボンクラの彼氏も、現実に対抗しないきいちゃんも。
この小説は、読み終わってフィクションだったと、読み手の私たちはそれで終わる。だが、ゆめの世界は終わらない。出口などあるのかどうかもわからない現実で、自己を守るために怒鳴りながら苦闘しなければならないだろう。
あの表紙の、こちらを睨みつけるまなざしは、共感しているふりをしながら傍観している私に、直接向けられている気がするのだ
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