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『無心ということ』  - 鈴木大拙


今日の読書こそ、真の学問である。
- 吉田松陰


〇今回の読書

『無心ということ』  - 鈴木大拙


〇なぜ読むのか?

ぼくはぼーっとしているのが好きだ。忙しいのは好きではない。仏教や禅では、瞑想やら坐禅やら、ぼーっとすることを突き詰めている。老子や荘子も、上善は水の如し、ぼーっとしておけばいいじゃないかと言われているように思う。

さて、ぼーっとするというのはどういうことなのだろう。ここにぼくが生きる道があるように思った。『無心ということ』まさにぴったりだ。当たるようにして当たる、読むべくして読んだような気もしてくる。

そして、この東洋思想に一貫する無心というものはなんなのだろうか。そういうものに想いを馳せてみようかと思い、この本を読んでみることにした。




〇無心とは

無心とは、端的に言うと、仏教思想の中心で、また、東洋精神文化の枢軸を成しているものである。皆あの手この手で、この無心を追い求めているのである。追い求めるとは言っても、それはどこか遠くにあるようであり、より内に秘められるようであり、今目の前にあるようであり、ただそこにあるようであったりする。この掴みどころのなく、なんとも言いようのない様が、深みであり、おもしろい所なのだと思う。

この無心に至った者を仏陀といい、菩薩といい、それは悟りをひらいたという境地で、涅槃といい、極楽浄土という。

これを親鸞聖人は「心は浄土に遊ぶなり」といった。道元禅師は「心身脱落、脱落心身」といい「柔軟心を得た」といった。それは円融自在、自自無碍の世界であり、それは受動性に生きる世界なのである。「本性清浄」心を綺麗に空っぽに、そこになにもないから入ってくることができる、無心であるから受け入れられるのである。この無心の世界を、般若心経では「空」といい、老子は「道」といった。

「心無心の心」心を無心にするところに心があるのである。「一切の事情で無心を覚了することが、すなわちこれ修行である。さらに別に修行というようなものはない。それゆえ無心がわかれば一切寂滅である、この外に無心はないのだ。」と達磨は無心論に説いた。


〇無心の境涯

無心とは思案をしないことをいう。それははからいなしということで、そこには本心が動き出す。本心は水の流れるようなもので、天地の心をいう。この邪のないところを無心の境地と心得るのである。

この思案のない時に「我」というものはない。そこに悪やら善やらの分別があれば、それは思案である。たとえば、人はみな無病の時には、快いとも、心わるいとも、何とも思わないものである。これを「根元の善」という。

また、思うというのと、思案というのは、大いに違う事なのである。思うというのは、身の動くのと同じ事で、心の動く働きであり、本心の通りに動くことは、善なものであり、本心を害することはない。思案するというのは、この思いをひろめることをいい、またそれは心を止めるともいう。

そうすると、無心とは、赤子の天真爛漫さや狼虎の野生、その本能の向くままにいるように思われる。ただし、本能は無心といえば無心であるが、それは動物の無心であって、人間生活の無心ではないのである。本能の世界から出て、「我」を成立させる中に心が生み出される。この有心の世界から、また無心の世界へ向き直すのである。この矛盾を克服する、あるいはその矛盾を超越するという働きが、どこからか出て来なくてはならないのである。

人間には意識というものが芽生えた。面倒はここから出るのである。この天地の心が、心のままに、働いてゆかないで、その働きに対して反省を加えるものができた。それが人間の意識である。
ここに人間としての天地の心があるのではあるが、天地の心の動きに対して反省と批判とを加えることになった。ここに矛盾ができた。そして、この矛盾が人間の世界を作り出した。喜と憂との世界、人生なるものである。

無心の世界には、人は人でありながら我、我は我でありながら人というような塩梅に、そこに両者の区別をなくさず、そのままにしておいて、そうして融通の道がつくところがあるのである。その道に無心の世界が開ける。

本能を肯定することがすなわち無心であるというようにも見える。ある点からみれば、その通りであるが、その本能に人間的、有意有心的鍛練が加えられて、そうしてかえってそこに、大いに今までの動物的無心の中では味わわれない無限の意味を持ったものが出てくるのである。この無意味の意味に生きることが、いわゆる無心の境涯なのである。

天地の心に背きながら背かないところ、その本能にもよらず、その有心にも停らないで、有でもない無でもないところを歩んでゆくところに、いわゆる人間的無心なるものを認めたいのである。


〇無心の体得

人間に芽生えた意識は、自覚性と無自覚性の両面を備えている。一面は五感の世界に連なり、一面は阿頼耶識の無の世界に没入している。これが心生活の中枢をなすものである。幸いにして、この無自覚が直ちに自覚面に繫がっているので、自覚面の転回において無自覚面の転回がまた行われる。意識の力によって、心の世界に大転回を起こすのである。

元来、有意識面がもつ意味は「我」の成立ということであるが、この「我」が成立すると同時に、分別の世界ができあがる。そして、善悪邪正真偽美醜などという価値が対立して来る。この分別を分別し批判して、「我」の生まれ出る根元に立ち戻るのである。それがいわゆる「般若の知恵」である。「般若の知恵」により、心の有意識面から無意識層へ貫く転回が可能になるのである。その基底に一条の光明があるのを見出すのである。

転回の前にあっては、分別「我」の世界が心の全部であるが、転回という体験があってからは、「般若の知恵」が光り、分別「我」に無分別性のあることが明らかにされる。すなわち無分別の分別、分別の無分別ということになるのである。

この光明が意識を通じて五識の上に働いているのであるから、この光明をさえ捕え得るなら、今までの世界は全然その趣を変えることになる。仏教でいえば、阿頼耶識の暗黒性が「大円鏡智」に転ずるのである。

この光明の世界に飛び込んで光明と一つに働くのが無心の境地である。そうして光明があるかないかということにも気がつかず、いわゆる任運騰々として、昨日もかくのごとく、今日もかくのごとく、明日もかくのごとくということになる。これを無心の体得というのである。


〇終わりに

無意識の奥底にある光明、その光明を頼りにすることで、無心を体得する。無心を体得した光景を想像すると、まさに後光が差しているのを感じられるものだろう。

無心の世界というと、木石のように何も感じず何にも動じない様を目指し心を無くすことと思われがちだが、そこにはとどまらないのである。心を無くしていく過程は自我の死に向かっていく様と取れるようにも思っていたが、その実は、根元の善を掴み取ることであり、まさに生きることそのものなのである。

この人間としての天地の心には、喜と憂の世界、あわれなりという人情の世界が見える。ここに明るい心持を持てたのが、無心ということを読んでみて、なによりよかった事だと思う。

心の奥にあるあったかいものを感じている。そういうものを大切にしていたいと思うのである。


~ お気に入りの箇所 ~

序文

自分の考えでは、この「無心」ということが、仏教思想の中心で、また、東洋精神文化の枢軸をなしているものなのである。西洋とは何かというと、はっきりした定義はむずかしいにしても、ただ、漠然と西洋というものを感じるのであるが、この感じの底には、西洋には「無心」がなくて、東洋にはあるというようなところで、両者の区別を認められはせぬか知らんとも思う。

詩の句に使うというのは、天然の景物に託して、無心の境涯を詠むことなのです。宗教と詩とはちょっと縁のないように見えますが、その実、いずれも、同じ所に根ざしてそれから枝葉を生やしているものです。宗教は生活の全体にわたり、それから詩の方は文字の方面、美術は色合、木石、楽器などで、同じ心持を描き出すものと思うのであります。

禅語詩句などなど

「一竹葉堦を掃って塵動かず、月潭底を穿ちて水に痕なし」 禅語

「雲無心にして岫を出で、鳥飛ぶに倦んで還ることを知る」 陶淵明

「詩三百思無邪」 論語

「常に無欲にして万物の妙を見る」 老子

「心なき身にも哀れは知られけり 鴫立沢の秋の夕暮」 西行法師

「まさに住する所なくしてその心を生ずべし。」 金剛経

「心身脱落、脱落心身」「柔軟心を得た」 道元禅師

「ただわが身をも、心をも放ちて忘れて、仏の家に投げ入れて、そうして仏の方より行われて、これに従いもてゆけ。」 道元禅師

「心は浄土に遊ぶなり」 親鸞聖人

「心無心の心」「動態禅を掴む」「剣禅一致」 沢庵和尚

「一切の事情で無心を覚了することが、すなわちこれ修行である。さらに別に修行というようなものはない。それゆえ無心がわかれば一切寂滅である、この外に無心はないのだ。」 達磨無心論

「心に事なかれ、事に心なかれ。」 徳山禅師

「独座大雄峰」 百丈禅師

「自然といふ自は、自ずからといふことで、行者の計らひにあらず。然といふは然らしむといふことばなり。然らしむといふは、行者の計らひにあらず、如来の誓いにてあるが故に法爾といふ。」 自然法爾

「万事は皆心よりなす、心は身の主なり」 心学

「心月孤円にして、光万象を吞む。 光境を照すにあらず、境亦存するにあらず。 光境俱に亡ぶ、復是れ何物ぞ。」 碧巌集第九十則盤山宝積の偈頌

無心の表現

雁が天空を飛ぶと、その影が、地面の上にどこか──否、この目前に湛えられている、水の上にちゃんと映っているではないか。雁には自分の影を映そうという心持はないのだし、水にも雁の影を映そうという心がない。一方には跡をとめる心がなく、また片一方にはそれを映しておこうという心もないが、雁がとべば、その影が水にうつる。心なきところに働きが見える。

宗教生活としての受動性

宗教というものには、受動性というものが中心となっているのです。「本性清浄」この清浄とは、ただ奇麗であるとか、大空の雲のない姿で、からりとして何もないという、ただそれだけを意味するのではなくして、そういう姿でないと、そこへはものがはいってこないのです。これは受動性をたとえたのであります。受動性は、つまり絶対的包摂性といってもよいのです。塞がったところは、すでに何かものがあるので、そこでは受動が可能でないのです。何もないから入れられる。自分に何かあると思うからはいって来るものに対して抵抗する。宗教生活にはそういう抵抗性を嫌うのです。ぎしぎしいがみ合っては本当の宗教的生涯というものが出て来ないのです。絶対包摂・受動性・無抵抗主義とはある一面では同じ意味を持っている。

しかし、人間の言葉を主にしますと、どうしても消極的に言い現わしたくなるのです。そしてそれによって本来の積極的なものが出るのです。
実は消極と積極とを共に離れなくてはならぬのです。これがわかれば、それをいろいろな関係で、消極的に言うこともあり積極的に言うこともあるのです。それは融通無礙です。普通には何かものに拘泥しているから。その拘泥しているものを、まず取ろうとする。その場合には、消極に言った方が便利である。便利で具合が良いけれど、人間の常としてまた、それに拘泥してしまうということがある。だから空ということをインドの人が言い出したが、この空も、今申すように空に囚われるということのないようにしたいものです。空に囚われると、空は空でなくなってしまう。それで宗教は受動性ということを時々言うことがありますが、私はこの受動性が大切であると思う。そういえば、いくらか近代的な言葉でもあるし、昔の言葉を使わずいくらかわかりがいいというようになりましょう。

無心完成の世界

心身脱落の世界は無分別の世界である。無心の世界である。この無心を体得する時に、往生するといってよいのである。
三昧になるということは無心の義に外ならぬのである。無心を他力と解してもよいのである。
本当の受動性が見られて、自分の力をも要せず、心をも費さずと言うわけで、これはとりも直さず無心であります。また他力三昧であります。

矛盾矛盾に非ず

見ておって見ない、聞いておって聞かない。これが無心の処です。

無分別の境を通して

「葉落ち花開く自ら時あり」目的がないようで、そこにまた目的の定まったものが見えるのです。

無心と往生と悟徹

何もない虚窓の下に坐して、葉が落ちたり、花が散ったりするのを見る。春になれば花が開く、夏になって葉が繁り、秋になってそれが散る、四季の移りかわって行くのを、この部屋から静かに見ている。見ているものと、見られる万物と共に虚──無心というものの中に現われている。この虚、この無心、この受動性なるものが、別にどこかにあるというのでないが、能見と所見と共に無心にして、虚といえば、虚そのものになっているのである。誓いも名号も歴然としてあるにはあるが──春の花、秋の光と共に、そこに侵すべからざる存在ではあるが、いずれもそのままで、虚無の体であることを体得する時に、真宗では往生ということが決定し、その往生決定せられたということがすなわち極楽である。禅ではこれを悟りをひらくというのであります。

聖人も賢人も小人も今日活きて動くは呼吸の二つなり。此の二つを継ぐものを見得すれば形なきものにして、万物の体となるものなり。是を名付けて善なりとのたまふ。

孟子の性善は生死を離れて天道なり。ここは易きにて知り難き所なり。

無事の人は食の美味き味を知る、ここをもって喜ぶ。熱病人は食は食えども美味き味を知らず、この故に喜ばず。性善を知らざる者もこの如し。

天地を人の上にていはば、心は虚にして天なり。形はふさがつて地なり。呼吸は陰陽なり。これを継者は善なり。 用を為所を主る体は性なり。是を以て見よ。人は全体一個の小天地なり。我も一個の天地と知らば何に不足のあるべきや。
天の心は人なり、人の心は天なり。

堵庵の思案なしと無心

思案なしというのは、はからいなしの意で、そこに本心が動き出すのです。本心は水の流るるようなもので、仏の誓い、仏のお命の、さらさらと何にも拘泥するところないのと同じだと言えます。「詩三百思無邪」で、この邪のないところ、これを無心の境地と心得て然るべしであります。

聖人の道は、思案なしの明徳を知って、此の身を其の明徳しだいにまかせるばかりで、外の事はござらぬ。思案なき時、我といふものはござらぬ。我がなければわたくしといふものはござらぬ。ゆへにここを名付けて仁ともいひます。我がなければ悪といふ物はござらぬよって、又性善ともいひます。此の性善といふは、すこしも善らしい事があらば、それは思案で、本然の善といふ根元の善ではござらぬ。たとへば人はじめ無病なとき、快いとも、心わるいとも、何ともかともおもはぬやうなのを、根元の善といひます。
道を学ぶといふは外の事でござらぬ。此の明徳にそむかぬをいひます。

思うと、思案とは大いに違う事でござる。思いは身の動くと同じ事で、心の動くはたらきでござる所で、本心の通りにしたがひはたらいて善なもので微塵も本心の害はしませぬ。思案といふは、此の思いをひろめるをいいます。思案はたくみでござる。少しもたくみなしには、わるい事はできますまいが、なんとそうぢゃござらぬか。
人はよく思ふといふ心の善なはたらきがある。

禅とは、ただ人をうまれのままのもとへ、たちかへらすばかりでござる。

他力の信といふは、思案なしになった名でござるほどに、本心のやしなはるるはおなじ事でござる。他力とは、こちでいへば天理まかせ、天理まかせとは仏まかせ、仏まかせとは、不生の仏心にまかせているといふ事でござる。少しも思案があらば、思案は皆自力でござる。やしなふといふは、不生他力を、自力の思案で邪魔せぬばかりで、外の事はござらぬ。

むかしの赤子になったといふ事でござる。此のしらぬが不生ぢゃ。其の不生がよろづの音声を聞くあるじなるゆへ、ここを合点した人を直に観音といひます。

酒脱自在

「いかなるか是れ趙州」
曰く「東門、西門、南門、北門」

「趙州」は従諗和尚その人も指せば、またその居住の町の名でもある。問いの意も自ら両面にかかっているので、従諗和尚の生涯を問うようでもあり、趙州城の地理景色を問うようでもある。
この和尚さんは、別に門戸を鎖して、来るものを入れぬというようなことはない。門はいつまでも明いている。あるいは叩けばいつでも応と答える。
和尚の境地は光風霽月で、別に隔たりをつけぬ、曇りもかからぬ、これが無心の端的であります。

幼児と無心

つまり知識がふえるということは、環境に対してこの身をどういう風に処置してゆく方が、この身の利益になることが最も多大であるかということを考えるのであり、だからこの知識がなくてはならぬようであるし、そうしてこの知識をふやすようにわれらは本来してきているのである。そうすると、一方では、知識がふえて、知恵がついて、いろいろのことを考えたり、判断したり、計画したり、またそれぞれの境遇に順応してゆくということになるのであるが、また他の一方を調べてみると、そういう塩梅にして得たところのものを、また棄ててしまわなければならぬというような心持が、しょっちゅうわれらにあるのである。知恵を増すのもよいが、増すとかえっていろいろの複雑な人間関係ができる。獲得がよいのか、棄却了がよいのか。ここに人生の一大矛盾というものを見る。

無心の活用

どうも赤児時代の天真爛漫、動物型態の虎や狼的の生活、そうした階段を離れてくるほど人間らしくなって来て、そこに子供時代や動物では味わわれない一種の価値をもった世界が展開するように思われる。果してそうだとすると、無心の世界に還れということは、いかにも矛盾で、後すさりすることのように思われてならない。

つまり本能と無心の予盾と、あるいは本能の中に存している無心を、この人間のうちの世界へもって来てどのくらいに働かし得るか、働かなければならぬかという、その矛盾のところにわれらの精神生活の進みゆく道があるように思われる。

人間的無心と天地の心

本能は無心といえば無心であるが、それは動物の無心であって、人間生活の無心ではない。人間界の無心には今一つ洗練せられたというか、あるいは人間化というか、あるいは仏化したとでも言うか、何かそういう風な無心の世界がなければならぬ。つまり本能の無心から出て、人間的有心へ出たが、この有心を今一度無心の世界へかえしてしまわなければならぬのである。かえすという意味は、本能的無意識的、無目的的無心から人間的有心の世界へ出て来なければならなくなったという、その矛盾のところを克服するというか、あるいはその矛盾を超越するというところの働きが、どこからか出て来なくてはならぬのである。

この天地の心というものを体得する時に、人間的無心が認得せられるのである。
天地の心は一言にして尽くせば、生々の力である。創造である、いわゆる乾の徳で、日に新たにして、また日々に新たなりというような塩梅に新しい世界を、次から次からと、創造してゆくのが天地の心である、乾の徳である。人間的にいえば、努めて努めて休まないというところに、天地の心を見るのである。

意識と価値世界の出現

人間にはいわゆる意識なるものが発生したので、面倒はここから出るのである。この天地の心が、心のままに、一直線に、垂直線的に、働いてゆかないで、その働きに対して反省を加えるものができた。それが人間の意識である。
ここに人間としての天地の心があるのであるが、これがために天地の心そのものに対して、また一つの障礙を与えることになって来た。天地の心の動きに対して反省と批判とを加える、これが先に言ったところの矛盾ではないか。そしてこの矛盾が実にわれら人間の世界を作り出したのである。
これがやがて喜と憂との世界で、人生なるものの端的である。
天地の心に背きながら背かないところ、神ながらの道をふまないで、しかもその道を出ないところ、動物的本能をもって、それによりて動きながら、またその上に人間的有心というものを加えて、そうしてその本能にもよらず、その有心にも停らないで、つまり有と無との間というか、有でもない無でもないところを歩んでゆくところに、いわゆる人間的無心なるものを認めたいのである。

有心が無心、本能的で人間的、天地の心をもちながら、天地の心そのものにあらざるところの人間心を動かす、神でもなく人でもなし、しかも神であり人であるところの道。

矛盾のままの無心

「我」というものをもちながら、我は我、人は人ということがありながら、そこに人も離れ、我も離れたところの世界を見るということにしなければならないのである。そこに初めて無心の体得があるわけである。

無心の世界には、人は人でありながら我、我は我でありながら人というような塩梅に、そこに両者の区別をなくしないで、そのままにしておいて、そうして融通の道がつくところがあるのである。そこに無心の世界が開ける。それを漠然と天地の心と言ってもよし、また神ながらと言ってもよいかもしれぬ。本能とさえ言ってもよいかもしれぬ。

本能を肯定することがすなわち無心であるというようにも見える。ある点からみれば、その通りであるが、その本能に人間的、有意有心的鍛練が加えられて、そうしてかえってそこに、大いに今までの動物的無心の中では味わわれない無限の意味を持ったものが出てくるのである。この無意味の意味に生きることが、いわゆる無心の境涯だと自分は言いたいのである。

無心と心意識の関係

無自覚の中から出て来る我執、無自覚のところに根をさげている末那識、これをはっきりと見なくてはならぬ。つまり末那識の本体を摑まなくてはならぬ。この末那識は無自覚性のいわゆる阿頼耶識なるものを捉えて自我と認識しているのである。阿頼耶識はいわゆる無始劫来の無明の巣窟であるから、これは何とも手のつけようがない。阿頼耶識そのものは、自覚性をもたぬのであるから、手のつけようがないのである。ただし、この阿頼耶識の本質というものは、末那識を通して摑むことができるのである。これが無心への手懸りなのである。

無心の無自覚性

この末那識は先にも言ったように自覚性と無自覚性との両面を備えているので、一面は五官の世界に連なり、一面は阿頼耶識の無の世界に没入しているので、われらの心生活の中枢をなすものである。無自覚のところはいわゆる無自覚で仕方がないが、幸いにしてこの無自覚が直ちに自覚面に繫がっているので、自覚面の転回において無自覚面の転回がまた行われる。そうするとわれらの心の世界に大転回を起すことにするには、どうしても意識の力によらなくてはならぬということになる。

どうして有意識の方から無意識へ働きかけて、それに変化あるいは転向を生ぜしめ得るかというに、それは意志の集注ということでできる。

元来有意識面がもつ意味は「我」の成立ということであるが、この「我」が成立すると同時に、分別の世界ができ上る。分別の世界はこの差別の世界ということであるが、いったんこの世界が展開し出すと、善悪邪正真偽美醜などという価値の入り込みが紛糾して来る。したがって「我」執、「我」欲、「我」慢などと称えられる「我」の一列の系統が成り立つ。そこで心の有意識面なるものは二元論の大元締ということになり、これから広がり出る分別網はその究極を知り能わぬのである。それで分別を分別し批判してその標準の所帰を定めなくてはならぬ。それがいわゆる般若の知恵である。 般若の知恵によりて、初めて、心の有意識面から無意識層へ貫く転回が可能になるのである。

般若の知恵

般若の知恵は元来無意識層の根底から迸出するものであるが、末那識を通じて意識に現われると、分別になる。分別になっても、なおその本性であるところの無分別性をそっちのけにしない限り、般若はその本来清浄性を失わぬのである。すなわち無分別の分別、分別の無分別ということになるのである。

転回の前にあっては、分別「我」の世界が心の全部であるが、転回という体験があってからは、般若の知恵が光り、分別「我」に無分別性のあることが明らかにせられる。これを阿頼耶識の暗窟に一点の光明を添えると言う。いわゆる転依なるものすなわち是れ、あるいは八識田中に一刀を下すとも言うのである。 八識(阿頼耶識)田中に一刀を下すことは、分別の無分別性を認めること、般若の知恵の働き出ること、意志の集注がその極限を突破したことである。

阿頼耶識と光明

この光明が意識を通じて五識の上に働いているのであるから、この光明をさえ捕え得るなら、今までの世界は全然その趣を変えることになる。仏教でいえば、阿頼耶識の暗黒性が大円鏡智に転ずるのである。

光明・無心・絶対

この光明の世界に飛び込んで光明と一つに働くのが無心の境地である。そうして光明があるかないかということにも気がつかず、いわゆる任運騰々として、昨日もかくのごとく、今日もかくのごとく、明日もかくのごとくということになる。これを無心の体得というのである。

大光明は、ただに眼から出るだけでなく、鼻、舌、耳、身、意、それらからもまたことごとく光を放っているのである。この光を摑もうとするには、何といってもすべての相対的、自覚的意識作用を畳んでしまって、そうしてその上にまた別の世界があって、その世界へ飛び込まなくてはならぬのだということにしておこう。これを浄躶躶、赤灑灑、知見を絶し得失を忘れるというのである。しかしこれだけのところに膠着してしまったら、また依然として相対の世界に踞坐することになる。無心の世界は、どうしても知的分別ではいけない、無分別の分別、絶対の無意識即有意識の世界に飛びこんで、初めて実現せらるるのである。

司空山の本浄禅師の無心論

仏とは即心是仏で、この心がすなわち仏である、それでこの心を悟れば仏の何者かがわかる。ところが、この心を悟ると心無心ということになって、今まで有心有心と思っていたその心が元来無心だということになって、心無心または無心の心であることがわかる。すなわち仏とは即心是仏だがこの心なるものは無心の心で、有心の心ではないのであるから、仏すなわち無心とも言えるが、また無心を悟れば仏もまた有らずというわけである。
それなら道とは何かというに、これは「無心是道」または「道本無心」である。無心を了すれば、そこに自ら道があらわれる。こうなれば、仏は即道これなりと結んでよい。道もと無心、無心是れ道。

本浄曰く、「わが此身心本来是れ道だ」と。
これはいかにも大胆なる矛盾のように見えるが、禅師の論理は次のごとくである。無心是れ道で、心がなくなれば道もまた無である。そこに心と道と一如の世界が成り立つ。

草木瓦礫を見聞覚知しながら、その世界で、それを空無にせよと言うのではない。その空にはなお見聞覚知の臭いがくっついていて、本物の道と相去ること頗る遠い。見聞覚知の世界に対していて、しかも取捨愛憎の心の動かぬところに、覚めなくてはならぬ。そんな所が別に有ると言ってはいけないが、不即不離という言葉で指示せられているところを会得してほしいのだ。 この会得が仏の覚であり、われらの悟である。無心の端的はこれを出ぬのである。無心というと、すぐ木石の世界を引き合いに出すのが、われら分別の常態だが、無心は見聞覚知の分別界で言うのでないから、ここをよくよく覚悟しなくてはならぬ。無分別の分別というのは是れだ。


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はるぽん
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