日記:2020/5/12(火)
Heute ist es sonnig. 今年も近所の垣根に虻が飛びはじめる季節になった。明るい赤銅色の毛をもそもそと蠢かしながら、車道を渡る毛虫も1匹見かける。
山田宏一『何が映画を走らせるのか?』(草思社、2005年)を読む。冒頭の章で宣言されるとおり、筆者による「映画史の「読み直し」の試み」であり、フランソワ・トリュフォーの言葉を借りて言い換えれば、「氷山の1角」として存在する映画史の「海中に没した深い見えざる部分」に隠れた「もうひとつの映画史」、映画にとり憑かれた「幻視者たち」の狂気に彩られた「失意と身代わりの映画史」を救う試みとも言える、感動的なエッセイ集。
「映画」というまだ見ぬ何かにとり憑かれていた十九世紀の発明狂たちの妄執、「映画の発明を導き、可能にした神話」とは、「写真から蓄音機に至るまでの、十九世紀に日の目を見た現実の器械的な再現技術のすべてを漠然とながら支配していたある神話の、完成された姿にほかならない」とアンドレ・バザンは彼の言う「神話」の意味を説明している。「それは、完全なリアリズムという神話であり、世界をその姿通りに、芸術家による解釈の自由という仮説や時間の不可逆性などの重荷を背負っていない映像で、再創造することができるとする神話である」。
それはむしろ、完全な妄想による完全なリアリズムの神話とでも極論してよさそうである。発明狂=見世物師たちの物語なのである。(山田宏一『何が映画を走らせるのか?』(p.254))
上記「試み」を踏まえ、「夢の工場」ハリウッドを「死の工場」アウシュビッツと重ね合わせるジャン=リュック・ゴダールの『映画史』のことを、「映画は一つの産業なのである」と断じたアンドレ・マルロー「東西美術論」の「ビデオによるゴダール的リメーク」であると、的確かつかなり辛辣に評しているのが印象的だ。
(…)そこにはバザンの言う「映画の神話の化身たち」が完全に無視され、ボイコットされている。「芸術」にも「産業」にもまったくかかわりのない――少なくとも何の貢献もしていない――狂った幻視者たちにすぎなかったからだろう。『ゴダールの映画史』に出てくるのは「映画」とは本質的に無縁だった「真の科学者」エチエンヌ=ジュール・マレーの名前だけである。(p.257)
また、「どんな素人にもゆるされる」「映画批評」について語る章は、SNSの発達と普及によってさらに状況が加速している昨今、非常に耳の痛い話であった。
おそろしいと言えば、有名人は有名人でその有名性の上にあぐらをかいて、無名者は無名者でその無名性の上にあぐらをかいて、無造作に、好き勝手に、あれがいい、これがわるいと、いとも気軽に言ってのけるという映画批評の実態である。
そんな「あやふやな」映画批評から、プロの映画ファンとしては、ただひたすら逃げるしかない。マキノ正博監督の『彌次喜多道中記』(一九三八)の逃げ腰の二人組、ディック・ミネと楠木繁夫のように、〽パピプぺ、パピプぺ、パピプペポ、だ。(p.66)
読んでいる記事:
シネマテーク・フランセーズによる、ナチス占領期のフランスにおける映画雑誌事情についての概略記事。その過程で映画出版産業が加担した反ユダヤ主義プロパガンダの数々から地下出版を通じたレジスタンス活動に至るまで、非常に充実した内容となっており、大変勉強になる。
ヴィシー政権下の駐仏ドイツ大使オットー・アベッツと昵懇の間柄であった親独のジャーナリストで政治家のジャン・リュシェールが、当時のフランス国内の出版業界を牛耳っており、映画雑誌もその例外ではなかったとのこと。この時設立された「Comité d'Organisation des Industries Cinématographiques(C.O.I.C.)」(映画にかかわる専門職からユダヤ人を排除するようつくられた人種差別的職業登録制度を制定したりなど、悪名高い政策でも知られる組織委員会)が、現CNC(Centre national du cinéma et de l'image animée : フランス国立映画センター)の前身組織であったことなど、まったく知らなかった。
ちなみにジャン・リュシェールの娘は、『格子なき牢獄 Prison sans barreaux』(1938)で一世を風靡した女優のコリンヌ・リュシェール。遠藤周作が大のファンであったらしく、1954年「伊達龍一郎」名義で『アフリカの体臭 ―― 魔窟にいたコリンヌ・リュシェール』という短編小説を『オール読物』に発表しており、これが事実上のデビュー作となるらしい。「戦後若くして病死したフランスの女優のコリンヌ・リュシェールが実はアフリカのジブチで売春をしながら生きているという話を聞いた男たちが、彼女を探し求める過程で目にする衝撃の光景を描く」(出典:SankeiBiz)という、どこかシュトロハイムの『クイーン・ケリー』(グロリア・スワンソン演じる修道院の若い娘が、アフリカで売春宿の女主人になる)を思わせるずいぶんと悪趣味なあらすじの短編で、慶應義塾大学出版会刊行の『『沈黙』をめぐる短篇集』に収録されているとのこと。読んでみたい。
また、上記のような主流誌に対する抵抗運動として1943年から地下出版で刊行された伝説的な左翼系映画雑誌、『レクラン・フランセ:L'Écran Français』についても取り上げられている。アンドレ・バザンやアレクサンドル・アストリュック(有名な『カメラ=万年筆、新しき前衛の誕生(Naissance d'une nouvelle avant-garde : la caméra-stylo)』は1948年本誌にて発表)らが執筆陣として名を連ねており、ジャン・ルノワール、ジャック・ベッケル、ジャン・グレミヨンといった錚々たる映画作家たちが刊行に協力をしている。後の『カイエ・デュ・シネマ』の源流となる雑誌。