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「1年は早い」は当たり前? | 莉琴

「もう12月なんて、1年あっという間ですね」
この時期あちこちから聞こえてくる常套句を今年は耳にしなくなった。
正確には親しい人から聞かなくなった。わたし自身がまったく思っていないからかもしれない。

大人になると時間が早く過ぎるのは新鮮味が薄れて刺激がなくなり、時間が流れ去ってしまうからだという。
たしかに、幼い子どもは1年があっという間と感じているようには見えない。日常に対して新鮮さと共に出会っているからだろう。

例えば、小学校で「き」という文字が「キ」で「木」で「気」でもあると知る。
じゃあ”てんき”の「き」はどれだろう?
え、「気」?!”きもち”の「気」と一緒じゃん!
てんきときもち、全然違うのにどうして同じ「気」なの?なんだそれ、おもしろい!
その瞬間の出会いを楽しみつつ、どっぷり浸かって味わいながら漕ぎ進んでいる。


昨年まではわたしも1年が早いと思っていた。
会社組織を中心として生活が回っていたからだ。
何曜日だから何時だから始業・退勤、急いで帰宅して夕飯を作り、入浴して少し寛いで寝る。翌朝も始業時間に間に合うように洗濯物を干し、身支度を整える。
昨日と今日が入れ替わってもわからないほど同じような、けれど何かに追い立てられるような日々を送っていた。
週末は自由だが、そもそも週末しか自由じゃないっておかしくないか。服装やランチタイムに縛りがないから一見わかりづらくされているが、決められた曜日・時間に沿って動くなんて牢屋がないだけでまるで囚人じゃないかと思い始めた。

また、本当に大切なものやニーズが正確に捉えきれておらず、取捨選択の精度が今より低いため、あれもこれも楽しそうに、必要そうに見えて予定やモノが増えていた。
要はただの欲張りだったのだ。
日々の流れの早い渦の中にいたら気付けないほどのさりげなさで、常に「ない」感覚があった。
「ない」からもっと知りたい、もっとほしい、もっとやりたい、あれもこれもと欲して隙間なく入れ込む。
不足感は「足りない」と思うことだけではない。「もっともっと」と欲することもまた同じだった。
そして、忙しい忙しい、1年が早いとまるで充実しているかの如く口にする。「千と千尋の神隠し」で観た、ぶよぶよに膨れ上がったカオナシのような姿なのに。


会社組織から離れることで、わたしも日々を”同じことのくり返しで流れ去ってしまうもの”ではなく、”昨日と今日ではまったく違う、かけがえのない瞬間の積み重ね”と感じられるようになった。

そして外側へ求め続けなくとも、もうすでに全部「ある」んだと気付いた。
なにかをやり遂げたから、経験したから、知識を得たから、その達成感によって満たされるわけではなくなった。
今日は朝の光の中で冬の冷たい空気を思い切り吸い込んだだけで、もう溢れんばかりに満ち足りていた。







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HAKKOU(はっこう)/リレーエッセイ
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