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「すき」を意識化。


2021年も早25日目*

とっても遅いご挨拶にはなりますが、あけましておめでとうございます。
2021年、noteはじめ。今年もテーマは決めず、日常の中でなにを感じて生きているのかをここに残していけたらいいな。

このnoteは「わたし」を生きるための備忘録。

今年も、どうぞお付き合いください。よろしくお願いいたします*


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昨年、このnoteを書いた。

書き留めたnoteの中でいちばんの観覧数で、いいねもいただけてとてもうれしかった。

ありがとうございます*

これを書いて以来、より一層自分を「すき」でいっぱいに埋め尽くしたくて、日々アンテナを張って生きている。


わたしはミーハーである。

好奇心旺盛で、基本なんにでも興味を抱く(ようにしている)。というのも、最初から「無理」「きらい」って思ってしまうとその時点で終わってしまい未来がない。でも、その選択が正解な時もある。むしろその方が多い。感覚が妙に鋭く、直感は大体当たるから。だけど、100発100中ではないから、時にその直感を疑うことも必要なのかな、って思ってる。

それは、自分自身で可能性を潰したくないからだ。


よくも悪くも自分のセンサーに反応した事柄は、自分を知り、理解するためのヒントになると思っている。だから、センサーを無視しないことを意識している。


「すき」と言っても、小さいことから大きいことまである。


例えば、太陽のにおい、雨の音、風が肌を触れた時、お花、お月さまの光に照らされた深夜2時のお部屋の空間‥そういった自然から与えられたものもあれば、だれかが作ったごはんのにおい、野菜を切る音、部屋の掃除機をかけたり、宅急便のお兄さんが鳴らすピンポン、夕方になると流れる街の放送(田舎あるあるかな)、そういう生活音もある。日常のなにげない瞬間の中にもたくさんの「すき」が溢れていて、無意識にそれらは自分にとって居心地のいいものになっている。


他には、趣味や仕事になっていること。

これらはセンサーに反応した事柄をキャッチして、意識的に掘り下げた先にある「すき」のカタチのように思う。人によっては直感的にときめいたものも、最初はそうでもなかったものもあると思うけど、どちらにせよ自分を追求した先にあるギフトみたいなものだ。


無意識的にすきなものも、意識的にすきなものも両方を大切にしていきたい。特に今年は無意識的にすきになったものをきちんと意識化して、しっかり守っていきたいと思っている。

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わたしは「本を読むこと」と「書くこと」がすきだ。

だけど、これは「すき」を意識していたわけではない。ごくごくナチュラルにそこに在ったのだ。これはおばあちゃんの影響が大きい。

幼少期の記憶がほぼなく、聞いた話によると、小さい頃大量の絵本を読み聞かせしてくれていたらしい。小学校の時は市の図書館に毎週行っていた。

本を読むことは高校入学と同時に疎遠になった。毎日部活で忙しく、また携帯に夢中になり、気が付けばそこから10年以上ほとんど本を読むことはなかった。


書くことに関しては、小学校1年生の頃から日記をつけていた。これもおばあちゃんのすすめ。記念すべき1冊目の記憶はしっかり残っている。茶色がベースになっているテディベア模様のリングノート。

その後、交換日記が流行った。自分のターンが来たとき、A4のノートを埋め尽くす勢いで書いていた。中学生の頃、HPが流行り、ノートに書くことから画面に書くことに移行した。そして、高校生の頃はHPからmixiに変わった。そこでわたしはメンヘラ全開の自分語りドロドロ日記を公開していた。(黒歴史の幕開けw)今思うと相当にイタイ奴だなと思うけど、いつの時代もわたしは「書くこと」をしていた。

そして、社会人になり、HPやmixi文化も廃り、ブログブームは訪れたが、わたしはそのブームにのっかることなく傍観者になった。ノートに向き合うこともなくなり、いつしか書くことから疎遠になっていた。


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今、再び「本を読むこと」と「書くこと」にエネルギーを注ぐことになり、気づいたことがある。

それは、そのふたつはわたしの「精神を保つバロメーター」になっていたということ。そして「すき」なことになっていたこと。

おばあちゃんから与えられたものは、繰り返すことによって、すきになっていたのだ。だけど、当時のわたしは自分にとってそれほど大切なものになっていたことに気付いていなかった。


いつもどんな時でも考え事をしているわたしは常に頭の中がいっぱいで、輪郭のはっきりしないもやもやとした想いは消化さることなく、心の奥そこに沈殿される。行き場のないもやもやは時間が経つとたまに浮上し、わたしを困らせた。だけど、これらは本を読むこと、書くことで多少消化(ときに昇華)されていたことに今気づいた。


メンヘラ時代、いつ落っこちてもおかしくなかった状況の日々。ギリギリのところで耐えていたのは、特に書くことに支えられていたんじゃないかなと思う。というのも、書くことから離れ、1年経ったくらいのとき鬱になってしまったから。これだけが原因ではないけど、でも、それほどに書くことは、わたしの中で大きな役割を果たしていたんだと思う。


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2年前、愛着障害と診断されたことをきっかけに大きくライフスタイルを変えた。お仕事の仕方も変えた(今もまだ模索中)。

発信するという立場になろうと決意したとき、わたしは無意識に「書くこと」を選んでいた。このやり方に迷うことはなかった。そして、知りたいこともたくさんあり、書くことを選んだ以上ボキャブラリーは多い方がいい、表現の仕方に触れたいと思い、本も読み始めた。


精神が安定してきた要因は数々あるけど、間違いなく「本を読むこと」と「書くこと」を再開したのは大きい。


こんな経験から、「すき」を意識化することの大切さを知った。

そして、それらをなんとしてでも守ることが、生きやすくする術のひとつだということも学んだ。


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今、新たな「すき」を見つめて、追求することに決め、向き合っている。
またこのこともカタチになってきたらここで話そうと思う*


「すき」はあまりにナチュラルに存在しているから、意識化しないと気づけないことが多い。人はネガティブな感情ばかり抱えやすいけど、同じ抱えるならきっとポジティブな感情の方がいい。そのためにもやはり、意識的に見つめることも時に必要なんじゃないかなと思う。これはある意味、生きる為の努力なのかもしれない。


エネルギーも時間も無駄使いはしたくないから、この意識をもって今年はより一層すきなもの囲まれて息をしていけたらいいなと思う。



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