書き間違えた紙をぐちゃぐちゃにして捨てるような感覚で、「死にたい」と言っている
よく見るやつ。
ドラマとか、漫画とか、アニメだと特によく見るやつ。
書き間違えたり、うまく書けなかった紙をぐちゃぐちゃに握りつぶして、部屋中に放る、みたいな。
その感覚で、「死にたい」。
まさか、こうやって紙を捨てたことがない、という人はいないと思っているので、その前提で話を進める。
こうして紙を捨てる時、
「もうこの紙はだめだ」
「次の紙に綺麗に書こう」
「インクで書いちゃったからもう新しい紙使うしかない」
「消しゴムで消すのだるいからもう捨てちゃおう」
「なんかうまくいかなかったから新しいのに書こうかな」
みたいな感情が出てくると思う。
そういう感覚で、人生を終わらせたい。
綺麗で、余計なものが書いてなくて、順序立てて書かれた紙が好まれるような世界で、
乱雑で、余計なものばかり書いてあって、書き途中で次の項目に移ってしまっているような紙は、捨てられるのは当たり前である。
でも、同時に、個人的には、前者は面白くない。後者の方がよっぽど面白いよな。と思う。
それでも、社会では前者が求められ、好まれているのだから仕方ない。
後者の紙だって、そんな社会で誰にも読まれないまま、読まれたとしても「乱雑だ」「汚い」「早く捨ててしまえ」と言われて過ごすのは、嫌じゃない?
そういう感覚。
人間の命の重みが〜とか、もう、そういう次元で考えてない。
例え自分ではよく書けた紙だと思っていても、誰かに見せたらディスられて、結局捨てる、みたいなこともあるだろうし。
ここまでで分からない人がいたらあれなので、一旦分かりやすくいうと、
「綺麗に書かれていて、懸念なく人に見せることができる紙」
=「上手に社会化された人間」
「乱雑に書かれていて、人に見せるとディスられるため、人に見せること自体をしなくなり、近いうちに捨てる紙」
=「社会化されなかった人間」
ということ。
私の人生は乱雑で、なんなら黒塗りで検閲までされている紙で、ほぼ読み取れない。
だからもう捨てても良いのではないか、と、合理的に言っているだけ。
「死にたい」という発言を聞いて、「何言ってんだ?」と思う人は、恐らく本当の苦しみを知らない。
本当の苦しみというのは、当事者にならないと分からない。
「生きる」ということすらままならないから、「死にたい」と言っている。
でも「死ぬこと」すらできないのが現状で。
早く安楽死を認めてくれないと、私みたいな人が増えて、大変なことになるんじゃないかな、などと考える今日でしたね。