この世界に春が訪れますように
中学から英語の授業が始まり家で宿題をしていると、祖母から教科書を見せてほしいと声を掛けられた。
自分も英語を勉強したかったけど戦争でそれは叶わなかったんだ、と羨ましそうにそれでいて目を輝かせながらページをめくり始めた。
終戦当時15歳の少女は、戦禍の中で青春を過ごした。
『Spring has come.』という一文を見つけ、ばあさんもこれは習ったんよと誇らしげに何故それを覚えているのか教えてくれた。
最初は「ふーん」と聞いていた私だったが、聞いた後、そしてその話を思い出す度、胸がキュッと締め付けられる思いがする。
この話は、祖母から聞いた戦時中の話の中でも、以前書いたおひなさまの話に並んで、特に印象深く、大袈裟だけど後世に残さなければならない戦争の記憶だと思っている。
史実に残らない、一庶民の小さな小さな記憶。祖母が私に話さず亡くなっていれば、祖母と一緒に消えただろうこんな小さな記憶を書き残す場所があって良かった、そう思う。
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激化する戦争
戦争が激化する過程で敵国の言葉である英語は勉強すること自体禁じられることになったのは、誰もがご存知のことと思う。
祖母の通う女学校でも例にもれず、いつの頃からか勤労奉仕の時間が増え、英語に限らず勉強らしい勉強の時間は減っていった。
そして、いよいよ英語の授業の取りやめが決まった。
最後の英語の授業の日
先生はそういって授業を締めくくった。
どんな思いで、おっしゃったのだろうか。
時代に抗えなかった先生が、未来ある少女達へ贈った精いっぱいの言葉だったのではないだろうか。輝く瞳で新しいことを学ぼうとする生徒たちを前に、授業の取りやめはさぞ悔しかったことと思う。
もちろん先生の真意は分からない。分からないが、どんな思いでおっしゃったのだろうか、いつも勝手に想像しては、胸が締め付けられる。
こうやって未来に希望を託してくださったことを、少なくともその授業を受けた1人の少女は、戦後何十年経っても忘れることはなかった。
こんな素敵な先生に出会えたからこそ、祖母は英語を勉強したかった、と思い続けたんだろう。
戦後へ
その後、祖母の家は空襲で焼失した。
家族とはぐれた火の海の中、幼い妹の手を引いて逃げ回った話は何度も聞かされた。家族と再会した時、生きてまた会えたことにホッとしたんだと繰り返し繰り返し話していた。
そして昭和20年8月15日、戦争は終わった。
玉音放送を聞いた少女は
「あぁ今日からやっとゆっくり眠れる」心からそう思った。
先生は戦後の世界をご覧になり、再びこの世界に春が訪れたと思われただろうか?
戦時中、兵庫県西宮市に住んでいた祖母は、春夏の甲子園の開会式をいつも楽しみにしていた。蔦の絡むあの甲子園球場の外観が映るたび、毎日この前を通っていたんだと、懐かしそうに何度も話す祖母の顔はまるで少女のようだった。
少女は戦後、家族で大分へと移り住み、広島に嫁ぎ、84年の生涯を終えた。
長い長い人生のほんの僅かな期間しか住んでいなかったのに、西宮の話題を耳にするたびもう一度行きたいなぁと思いを馳せていた。
生きるか死ぬかを経験した地を再び訪れたい、そう願うものだろうか。
戦禍においても、青春というのはそれほど輝かしいほどに懐かしく何物にも代えがたい瞬間なのかもしれない。
祖母にとって戦後の世界は、春が訪れた、そう思えたのだろうか?
もう、それを聞くことは叶わないが、辛い戦争体験だけでなく、楽しかったと思えることが少しでも多くあったならいいな、と思う。
桜が咲き始め、暖かな日差しが差し始めるこの時期、私はいつもこの話を思い出す。
そして今日、1年越しに甲子園球場に球児達が戻ってきた。
まだまだ油断のできない状況は続きますが、私もこの世界に再び春が訪れすことを祈って、今日のお話をおわります。