祖父とすき焼きと私
ど田舎にある実家の地域は農業や酪農、畜産が盛んであり美味しい牛肉がある。子どもの頃から人の集まるときや盆暮れのご馳走に食べている。
何故か年末年始のどちらか、祖父仕切りですき焼きを食べるのが恒例だった。
割下は使わず、祖父の手元に砂糖の容器と醤油のボトルとお湯の入ったポットを並べ、まず牛脂をひいて肉を焼き砂糖と醤油で味つけをしていく関西スタイルだった。祖父が料理をするのはこの日だけで、準備は祖母や母がするもののとにかく何故かすき焼きを作るのは祖父と決まっていたし、疑問にも思ったこともなかった。
私も姉も甘辛い味付けが好きではなく、すき焼きより塩胡椒で食べる焼肉の方が好きで、子どもの頃「卵つけるのじゃなくて焼いたのがいい」と言ったものだが、それは認められず必ずすき焼きを食べさせられた。
ただ祖父が作るすき焼きは甘すぎずしょっぱすぎず絶妙な味付けで美味しかった。料理なんてしない人だったがそれだけは張り切って作っていた。
大正生まれで戦争を経験した祖父世代の人にとってすき焼きは大御馳走だったんだろう。そのため、家長である祖父が仕切り特別な日に食べるもの、という認識だったのではないかと思う。
もちろん私とて牛肉、それも高価な国産和牛を頻繁に食べることは出来ないが、それでもやはり祖父に比べると贅沢が染み付いていると思う。
そもそも戦地で蛇やねずみを捕まえて食べて生き延びた祖父と、飽食な時代に生まれた私の価値観が同じわけがない。
大学進学を機に実家を出て以来ずっと一人暮らしの私はGWや盆暮れなど長期休暇に合わせて帰省している。20代前半の頃は帰省しても同様に帰省してきた友達と毎夜遊び歩いてろくに家に居付かず、家族と食卓を囲むことも少なかった。
母はお好きにどうぞと言った感じだったが、やはり祖父母はたまにしか会えない孫の近況を話をしながら食卓を囲みたかっただろうなと今なら思う。
祖父は私が25歳の頃亡くなった。晩年は病気を抱えながらも最後まで一生懸命に自分らしく生きた祖父だったと思う。
2月に一度心肺停止したのをきっかけに入院した。私が生まれてこの方、幾多の"今夜が山です"を乗り越えた祖父だったので、その時も例に漏れず心肺停止から奇跡的に息を吹き返した。
学生時代父が急死し"人は死ぬんだ"ということを身をもって経験したはずだったのに、何故か強運で生命力が強く、現にそのときもまた息を吹き返した祖父はまだまだ大丈夫だと思ってしまった。
その頃、土曜に仕事が入ることが続き、なんだかんだと帰省できないまま祖父の入院から1ヶ月が経っていた。
持病の悪化から、新たな酸素吸入機を導入したと聞いていた。本来こんな高齢者に新たな装置は使わないが、チャレンジャーの祖父なら使いこなせるかもと先生が挑戦してくださったと聞いた。そして祖父は使いこなしていたようだった。
しかし、その装置を使い続けるにはもう在宅での生活はできないとのことだった。そのため祖父は退院後、施設にお世話になるための相談が始まっていたらしい。
昔、母が家を空ける日に祖父母はショートステイに預けられたが、どうしてもそれが嫌だった祖父はなんやかんやと逃亡を画策するタイプの人だった。入院してもとにかく逃走経路を見舞客に確認させては、ナースステーション横の監視部屋に送り込まれるような人だった。
とにかく他人の世話になるのが嫌で、自分の口から食べ自分の足で立ち自分でお手洗いに行って生きていくのが理想だったんだと思う。そして齢90にしてそれはそれなりに叶っていた。持病とうまく付き合いながら健康第一に、家族には時にはた迷惑なほど新しい楽しみを見つけ色々挑戦を続ける老人だった。
祖父はその年の初めに「私の目標」を書き残していた。
他人に迷惑をかけず健康第一、そしてお迎えが来たらぐずぐずせずさっさと逝きたい。というような内容だった。
そしてその通り、施設に入るという祖父としておそらく「他人に迷惑をかける」状況下でスッと息を引き取れたのはきっと本望だったろうと思う。
ただ私はまた後悔することになった。父の時は電話を受けたとき既に息を引き取っていたが、祖父とは結果的にではあるが1ヶ月の時間があった。帰ろうと思えば帰れたのに、仕事や予定を優先した自分の愚かさに後悔してもしきれなかった。
亡くなる2〜3日前に、餃子ちゃん帰ってこないね。と言っていたようだ。母も亡くなるなんて思わなかったし、仕事も忙しそうだし敢えて言わなかったと言われたが、そんなこと言われなくてもあんなに可愛がってもらった祖父のお見舞いに毎週でも帰ればよかった。
私が最後に祖父に会ったのはその年の年始だった。その年も祖父はすき焼きを振る舞ってくれた。すき焼きを食べながら、餃子ちゃん綺麗になったね。と言ってくれた。今思えばそれまでにそんなこと言ったことなかったのに、あれも何かの予兆だったのかななんて思う。「また帰るね!」と言ったのが永遠の別れになってしまった。
私はそのとき以来すき焼きを食べていない。残された家族も特段すき焼きが好きではなかった。自分で作ることもないし外で食べる機会もない。
年末年始、世間様もすき焼きを食べるご家庭が多いようでSNSでたくさん見かけるが、もう我が家の年末年始にすき焼きが並ぶことはない。
そして私は今年、生まれ初めて一人暮らしの家で一人で年越しをした。
コロナの影響で1年帰省できなかった。実家を出て初めてのことだ。年末年始こそ帰ろうと思ったところにコロナ患者が急増し、帰ってくるなと言われてしまい私もそれがいいと思い帰省は諦めた。
もちろんお墓参りができていないので、祖父母や父が餃子ちゃん帰ってこないな、と心配してるんじゃないかなと思う新年の夜であります。