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ひとりのさきに。Vol.1 ひとりは孤独ではない

人と暮らすことが長くなると、ひとりでいる時がどんなだったか忘れることがある。

物理的なひとりの時間が全くなくなるというわけではなく、自分の認知というかアイデンティティとして、土台に誰かと生きているという状況があると、「あれ?一人ってどんなだっけ?」
となることが多い。

生活の中で日常的に会って、たわいない話をして、ご飯食べて、何かするわけでなくとも「一緒にいる/一緒に時間をすごす」人がいると、自分一人で生きてる時ってどんな感じだったか忘れてしまう。



人と暮らすということ

わたしが好きな宇多田ヒカルさんのお話で、インスタライブにて視聴者さんからの「誰かとの別れを乗り越えるのはなぜこんなに痛いのか」という質問への答えが思い出される。
宇多田パイセンは、自分自身はあまりそのような考え方をしたことがないと前置きした上で、このように答えたらしい(原文は聞いてないごめんなさい)

”関係が終わったり、誰かを失ったりする時に痛みを感じるのであれば、それは最初から心の中にあって、その関係が痛み止めのような役割を果たしていたんだと思います。
心の中の痛みを紛らわしてくれる存在というか…。
そんな支えを失ってしまうことに痛みを感じるのだと思います。

たとえ相手に依存しないようにしていたとしても、実際は頼ってしまうというか…。少なくとも、私の経験から学んだことです”

https://grapee.jp/822295

「関係が終わった時の痛み」にだけ焦点を当てると、
わたしはその痛みは「誰かと一緒にいる」または「誰かの●●である」という無意識のアイデンティティが喪失されることからくるものだと思うし、それは時間の経過でどうにか癒えていくものだと思う。もちろん、離別した人が自分の中で欠け替えのない存在であれば、それは時間がたっても癒えずに棘として残り続けるだろう。(ちょうどアデルがHelloでThey said time's supposed to heal but I ain't done much healing と歌っているように。)

無論、関係は「痛み止め」だけで完結されるべきではないと思う。本当に大切な人と深い関係を築き、本当に欠け替えのない時間を実現していくことは本当に美しいと思う。

しかし、宇多田さんの言葉の後半、「自分の中に元々ある痛み」という観点で考えてみると、冒頭の「あれ?ひとりてどんなだっけ?」に対してすごくヒントが得られる。個人的には、この「痛み止め」という言葉がすごくしっくりきた。

いきていると誰しも何かしらの「痛み」をもつ。
それは決定的な心の傷かもしれないし、単なる孤独感または寂しさからくるものかもしれない。日々の仕事や生活の疲れということもある。

関係の名前や深度に関わらず、すくなからず「誰かと一緒にいる」ということは、一人の時の痛みを緩和してくれる/麻痺させてくれる「痛み止め」の効能があると思う。目の前にいる誰かと物理的または精神的に「つながる」ということ、日常を「わけあえる」ということは、その痛みを自分一人で抱えなくてもいい、またはその痛みから目を背けることができる、その痛みに付け回されないですむということだ。

ひとりで生きているとき

誰かと暮らすということはあたたかく素晴らしいことだと思う反面、自分の中の「痛み」を忘れてしまうことでもあると思う。

じゃあ一人で生きるときはどんなだというと、それは以前書かせてもらった、ウルトラ拙い記事に書いてあるような感じだ。

一言でいうと、自分の中にある「痛み」のようなものを抱えながら、上手に付き合っていくといった感覚だ。

大学に入って、ひとり暮らしを始めて、血縁関係にない誰かと多くの時間を過ごすようになると、関係の中ではこういった「痛み」のようなものが薄れていた(もちろん完全に忘れるわけではないが)。

そして、またひとりに戻った時、誰かと一緒にいることで感じずに済んでいた「痛み」を徐々に思い出してく。
その「痛み」は苦しくて、ぐるぐる回って、いたずらに誰かを求めたくなったり、そんで自己嫌悪に陥ったりと大変だ。もちろん、「寂しがりや」と吐き捨ててしまえばそれまでだし、その痛みに任せて人に迷惑をかけたり、傷つけてたりしてしまうことは許されないと思う。

まぁつまり、痛みを抱えながらひとりで生きることは、少なからず誰かと一緒に生きている時よりかは、苦しい笑。

でも、それを失ってしまっては、それは本当に私なのだろうかとも思う。「痛み」も自分の大切なパーツの一つであり、それと向き合う時間は無意味ではない。
わたしはそれを覚えていたいと思う。

もっといえば、痛み/孤独はミューズである という感覚さえあるが、これは話し出すときりがないのでまた別の回にでも。

「ひとり」とは、孤独ではない。

つらつら書き連ねてしまったが、まあ何が言いたいかというと

そこに「痛み」が伴うとしても、
ひとりでいる時には、誰かといる時とは別の豊かさがあるんじゃない?

ということだ。

もしかすると、こう思うのは不器用でいきるのがへたくそなわたしのせいであって、みんなは「ひとりでいるとき」も「だれかといきるとき」も両立しているのかもしれない。でも、少なくともこういう視点があってもいい。

で、その豊かさの一つに「つながり」があると思う。
誰かと生きている時はその相手と同じ時間をすごし、趣味や生活で
つながることができると思う。

ひとりになった時、そのような身を寄せられる相手はあまりいない。
その代わり、だれかとちょっとずつつながって、ちょっとずつ依存していきていく豊かさがあるんじゃないだろうか。
自分の「荷物」は抱え続けたままで、すこーしだけ誰かに助けてもらったり話をきいてもらったり。でも決してすべて投げ出して預けいることはしない。そうすることで自律していけるんじゃないか
鷲田清一さんもそんなこと言ってました(教科書はやっぱ深い。)



もうひとつ、というかこれが今回のメインだが、ひとりでいる時は
「作品とのつながり」がより豊かになると感じている。

好きな音楽や映画、文章に触れていると、
「これは私のための言葉だ/音だ/映像だ」と思うことがある。

じぶんの痛み、もっというとこころを掬いあげてくれる一節/表現が作品にはある。支えてくれる「誰か」がいないとき、わたしはそういったものたちに支えられ(てい)ることをより強く実感する。そしてそれはどんな時でも自分の中に宿る「おまもり」になる。

そばにいてくれる人がいないとき、私を抱いてくれるのはいつも音楽と言葉だちだった。

KID FRESINOの1バース
小袋成彬の一節
カネコアヤノのステージング
「万引き家族」の安藤サクラ
「聲の形」で描かれる傷たち
楽曲やラジオに載る米津玄師の言葉たち
秋田ひろむの紡ぐ言葉たち
(挙げだすときりがない)

これらはある時々で私を救い続け、今もわたしの中に生きている。
ひとりだとしても、こーゆものたちにめちゃくちゃ助けられていきてる。


もっと言うと、その作品の奥の大きなコミュニティと繋がっている感覚もある。
ラジオや音楽ならリスナー、本なら読者、映画なら見た人、つまり作品を介してその「受け手」の存在に思いを馳せると、なぞに安心感が湧く。
どこかに自分と同じ歌詞に救われたり、自分と同じポイントに笑ったりしている人がいると考えると、
「ひとりとは、孤独ではない」ことを知る。

おわりに 助けられたものたち

ふわっとしたのっけから感覚的なことを話してきた来たが、要は
誰かと生きることが豊かであるように、
ひとりで生きることもまた豊かであるはず
みたいなことを言いたかった。

わたしには、「痛み止め」がなくなってひとりに戻った時、また自分と再会するような感覚があります。その良し悪しは置いといて、自分にとってそれはとても大切な感覚です。

さいごに、前章で挙げたわたしを助けてくれてくれた断片たちをいくつかここに置いておきます。


これはアルバム(strides)全部に救われてる

喜劇やエッセイにも助けられてる。

あとは西加奈子さんの「サラバ!」やコミックなら東京グール、聲の形、おやすみプンプンなど挙げだしたらキリがないのでとりあえずこのへんで。

こんな長い記事を読んでくれた方、本当にありがとうございます。

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