うぐいすにほれぼれ
うぐいすの鳴く声が聞こえる季節です。
「ホーホケキョ、ホーホケキョ…法を聞けよ、法を聞けよ」
と、小さないのちまでもが私におみのりを勧めているんだと、豊かな世界を示してくださった先人がいらっしゃいます。
「お前のことでいっぱいになってはたらき通しの如来様がいらっしゃるんだよ、どうかそのことに気付いてくれよ」と無数のいのちが私にお念仏をすすめてくださいます。
お同行のお宅でお参りをする機会が度々ありますが、仏様の話で頷く人もおり、懐かしい方を思っては寂しさに涙される人もあり、色んな人がいらっしゃいます。
時には法話の最中目を閉じたままの方もいらっしゃれば、目の前でLINEをされる方、電話に出る方、テレビをつけたままの方もいらっしゃいます。
時には正直カチンとくることもありますけれども、私の説教が悪いんじゃろうな如来様の邪魔をしてしまっとるなと情けなく思うことがほとんどです。
「仏教は小難しい、坊さんはいつも訳のわからん話をしよる」
僧侶としては耳が痛いことですが、本当は何も難しいことはない。
「お浄土の仏になるいのちと思いとってお念仏をしてくれよ。まかせてくれよ必ずお前を仏に変えなすぞ」
という如来様の願いのまま、この口にお念仏をさせてもらうだけです。
「それがどうした、そうすると俺がどうなる」
そんなことを言われることも思われることもありましょうが、そんなことは知ったことではない。とやかくいう前にお念仏してみてはいかが?と言っては喧嘩になるでしょう。
度々いうことですがお念仏をしたからというて私の命がピカピカになることもなければ、法を聞き続けて偉くなることも、金持ちになることも、賢くなることもない。間違いのないものが私の中心に据えられて、そのことにただ安心をさせてもらうだけです。複雑に思わせてしまってすまんことです…
ただ、言うなれば、感性が豊かになる、と言うては大袈裟でしょうか。
法を聞き続ける中に、それまでは何とも思わなかったものが急にありがたく思えることがあります。何とも思わなかったどころか、憎くて憎くて嫌なものでしかなかったものが、実はそういう事情があったのだと知りもしたり、私の知らん大変な事情があったのではないかと想像するだけの余裕ができることもあります。
「ああ、そういうことだったのか」と懐かしく思わされることなんかもあります。
別にそうなろうと思って聞いていくものでもありませんけれども、自ずとそうなるようにお育てを受けているんでしょう。
「それは別に仏教を聞くことに限った話ではない」と思われるかもしれませんが、あたたかく懐の深い如来様のお慈悲を聞くからこそ、今の私がこう思えているのかと思えば、単純にそのことが嬉しくてたまらんのです。
「ほれぼれと」阿弥陀様がおんしゃるな、任せんしゃいと言いよらすばいなと、お陰様で折にふれては、ナンマンダブとこの口に出てきてくださる如来様のことをありがたく思えるようになりました。
うぐいすの鳴き声に春を感じるだけでない、私のいのちを思わされ、如来様ましますことを思わされる季節です。
ナンマンダ