「麻田君。愛は妄想だと確信する」・・・永遠の愛を誓う鍵。それは。
『麻田君。愛は妄想だと確信する』
麻田君は、高校時代に何度もアプローチして、ようやく付き合い始めた彼女と別々の大学に入学した途端、別れてしまったそうです。
しかも、破局の理由は遠距離ということではなく、
高校時代から同級生と二股をかけられていたらしいのです。
おまけに麻田君の方が「滑り止め」だったのですから、
彼のショックは容易に想像が付きます。
そこで麻田君は、その月の仕送りが入るやいなや、パスポートを握りしめて
ヨーロッパに飛び立ったのです。
当時彼は、「原文によるシェイクスピアの研究」という授業を取っていて、
出発前は「オセロ」のベニス。「リア王」のイギリス。「マクベス」のスコットランド。「ハムレット」のデンマークまで、四大悲劇の舞台を全部巡って来る、と息巻いていました。
しかし、いくら仕送りを全部使ったとはいえ、
麻田君の懐具合ではベニスに行くのがせいぜいです。
ホテルに着いて、ベッドに横になった途端に少し正気に戻り、
逆に一人旅の寂しさがのしかかってきたそうです。
麻田君は、気晴らしにロビーに降りると、シェイクスピアの勉強をしているとホテルのコンシェルジュに伝えました。すると。
「シェイクスピアなら、ヴェローナは行かれましたか?
中世の街並みが残っていて、とてもロマンチックな街ですよ」
コンシェルジュは麻田君に色々とヴェローナについて説明してくれたのですが、その時の麻田君はボーっとしていて、何も耳に入ってきません。
とにかく、この先どうしようかと、考えあぐねていた麻田君は、コンシェルジュのおススメに従って、ホテルの用意したツアーバスに乗り込みました。
ヴェローナは、ベニスから100キロほど西に行ったところにある人口26万人の都市。
コンシェルジュの言う通り、美しい街でした。
しばらく散策するうちに麻田君は、レンガと漆喰で作られた家の前に出ました。
その家の前には美しい女性の立像があり、たくさんの女性が長い列を作っています。
女性たちは次々に像に触り、側にある金網にピンク色の南京錠をかけていくのです。金網は無数の錠前がかけられ、全体がピンク色に染まっていました。
いったいこれは何だろうと思い、錠前の一つを手に取ってみると・・・
「Pure love like Juliet (ジュリエットのような純粋な愛を)」と書かれています。
ジュリエット?
麻田君はその時、コンシェルジュが言っていた言葉を思い出しました。
彼は、「ロミオとジュリエットの舞台だから是非行くべきだ」と話していたのです。
シェイクスピアの4大悲ばかり考え、「ロミオとジュリエット」については
完全に忘れていた麻田君は、この地に導かれたことを運命だと感じたそうです。
何にでも、「運命の出会い」や「神の導き」を意識するのが麻田君の良い所でもあり、悪い所でもあるのですが・・・。
とにかく、この街はシェイクスピアの戯曲『ロミオとジュリエット』の舞台として知られていて、この家こそが、ジュリエットのモデルといわれた女性の家。
女性たちが愛おしそうに触っている立像はジュリエットの像。
見上げると2階にはバルコニーもあります。
「そうかぁ。この建物を見てシェイクスピアは、あの情熱的なセリフを思いついたのか・・・『おお。ロミオ。どうしてあなたはロミオなの・・・』」
奇妙な日本人男性が身をくねらせながら、日本語でロミオロミオと呟いていたのですから、その場にいた人々には、さぞかし不気味な光景に見えた事でしょう。
麻田君も、愛の祈りをかなえるというピンクの錠前を買って帰りました。
その場に施錠しなかったのは、運命の相手にまだ出会っていなかったからだそうで、本当の愛を誓う時に、その錠前を使うつもりで買ったと言っています。
その後ホテルに戻ると、麻田君は早速コンシェルジュにお礼を言いました。
「ありがとう。シェイクスピアの足跡を訪ねられて良かったよ」
「シェイクスピアの足跡? いいえ。彼はあの街には行っていませんよ」
「え! どういうことですか?」
コンシェルジュによると、ロミオとジュリエットの舞台がヴェローナなのは間違いないが、シェイクスピア自身が、ヴェローナの街を訪れたという事実は確認されていないと言うのです。
「では、あのジュリエットの家は?」
「さあね」
コンシェルジュは、両手を上に向けて軽く肩をすくめてみせたのでした。
「愛は全て妄想なのか・・・」
その時、柄にもないロマンチックなセリフが口をついて出て、
麻田君は失恋の痛手を忘れることが出来たそうです。
それにしても恐るべきは文豪の力ですね。
何の確証も無い場所に、世界中から純粋で情熱的な愛に憧れた女性が訪れ、
愛の祈りを込めて壁をピンクに染めているのですから。
おわり
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