
異邦人であること: リービ英雄「星条旗の聞こえない部屋」書評
本作の作者と背景について
リービ英雄は、1950年にアメリカ合衆国カリフォルニア州バークレーで東欧ユダヤ系アメリカ人の父とポーランド系アメリカ人の母から生まれた。
彼の本名は、イアン・ヒデオ・リービという。このミドルネームのヒデオという名前は、彼の本名であり、父が日系2世の友人からつけたものである。
彼の父は、ヒデオが生まれた時、カリフォルニア大学バークレー校で中国の唐の歴史研究をする博士課程の大学院生だったが、教職に就くことは叶わず、その後外交官となった。
こうして父親の仕事、後には父と母の離婚といった事情も加わり、ヒデオは、幼少時から台湾や日本といったアジア地域とアメリカを往復するような生活を送ることになった。
アメリカの高校を卒業後は、日本に来日し東京の早稲田大学に一時的に通った。
そしてこの滞在をモチーフに描かれたのが本作だと思われる。
滞在を終え、アメリカに戻るとプリンストン大学に入学する。そこで彼は、日本語、中国語、韓国語といった幅広いアジアの言語と古代から近代にわたる日本文学を学び、在学中は図書館にこもり一心不乱に日本の詩を翻訳した。
そしてそのまま大学院に進学し、万葉集の歌人柿本人麻呂について博士論文を書きあげ、そのままプリンストン大学の助教授になった。驚くことだが、プリンストンに学生・院生・助教授と通算で17年間在籍したが、その半分の期間は日本に滞在する生活を送っている。
長い日本滞在中には安部公房といった日本人文学者とも交流し、研究も重ねながら、ついに31歳の時、万葉集の全訳を出版し、全米図書賞翻訳部門を受賞した。
そして、受賞の次の年、彼は、新宿の飲み屋で小説家の中上健次に、「お前も日本語で書け」と言われたそうだ。リービ英雄にとって、そういったことを日本の作家から言われるのは初めての経験だったらしい。
こうして37歳の時に発表され、「日本語を母語にしない西洋人初の日本文学」と話題を呼んだのが、本作「星条旗の聞こえない部屋」になる。
あらすじ
アメリカの高校を終えた主人公ベンは、来日し外交官である父の赴任先である横浜の領事館に滞在している。
父は、ベンの実母とは離婚していて、現在は再婚した中国上海出身の貴蘭と、その間に生まれた息子と領事館で暮らしている。
捻くれ者の父、貴蘭と息子、そして前の妻の息子のベンたちは、現地の駐在人の白人コミュニティから浮いている。
そんな中で、ベンは、大学の日本語コースに通うことを父に頼み、父は、渋々ながらそれを認める。
彼が大学に通うようになると、「イングリッシュ・コンバセーション・クラブ」に所属する現地の日本人大学生は、英語学習のため、ベンに英語で話してくる。
彼らは、政治的な話をベンに振ってくるが、ベンは政治に関心があるわけでもない。日本人から見れば、皆アメリカ人であるけれど、ベンはアメリカ社会から疎外されているアメリカ人でマジョリティからは逸れている。
そして、ある日、ベンたちがまた教室で英語で会話をしていると、関係のない日本人の学生がベンに声をかけてきた。学生服を着る彼はベンにこう話しかける。
なぜ日本語を話さないのですか?
その出会いをきっかけに、ベンとバンカラ学生の安藤との間の少し奇妙な友人関係が始まるのだった。
作品について
調べてみると日本文学の定義というのは完全に定まっているものではないらしい。
日本文学(にほんぶんがく)とは、日本語で書かれた文学作品、あるいは日本人が書いた文学、もしくは日本で発表された文学である。これがWikipediaの定義
https://ja.wikipedia.org/wiki/日本文学
検索をかけてみると立正大学の図書館が発行したものでは、日本人によって日本語で書かれた文学の総称と限定をかけている。
https://www.ris.ac.jp/library/learn/cb6q79000000acyc-att/JapaneseLiterature.pdf
日本人によって日本語で書かれた固有の文学作品。古事記以来、和歌、能狂言、江戸戯作まで連綿と続き、明治以降、口語体の散文文学が主流となった。と表記するのは、河合塾の入試情報サイト。https://miraibook.jp/field/subject-detail/3101
学問的にどうとかこうとかの前に、それぞれの筆者ごとに異なる考え方がわかり、下記2つの定義に従うと日本人ではなく外国人が書いた本作は、日本文学と定義されないことになる。
私は、何も意地悪が言いたくて、このように言ったのではなく、むしろこの下記の二つの感覚を素朴に理解できるから引用した。
今では、イラン出身で文学新人賞をとったシリン・ネザマフィ、芥川賞をとった中国ハルビン出身の楊逸などがいる。戦前との日本との関係から、韓国や台湾にルーツをもつ作家たちも確かにいる。
ただ、私も含め一般的な感覚では、外国人が日本語を学び、日本語で小説を書くというのは、想像が追いつかない。
それは私たち日本人にとってもそうであるように、母語以外で文学作品を書くというのは簡単ではなく、この険しい道を普通は選択しないからだ。
また書いたとして、特に昔はネットで公表できるわけではないので、本格的にやりたいのなら同人誌でもなんでも雑誌に掲載されるレベルを目指さなくてはならない。その水準まで言葉を磨き、辿り着くことは果てしない道のりだ。
だからこそ、私は、そこまで苦労を重ねて書いた小説で一体何が表現されているか、何を表現しようとしているか深く関心がある。
もし、あなたがアメリカ文学が好きで、英語で書くとなったら、どのように書くだろう。サリンジャーのように書くのだろうか、それとも日本語を操るものにしか書けない英語で新しい何かを書くだろうか。
そんなことを考えながら、内容に移りたい。
早速だが、本作は、私小説という分類に入る。
大雑把すぎるが、私小説は
作者の実生活から作品のモチーフが取られている。
壮大な物語ではなく心理描写に重点を置く傾向にある。
長編小説より短編小説で書かれる傾向にある。
といったことなどが挙げられる。
以前に紹介した阿部昭の「司令の休暇」もこの私小説に当てはまる。日本文学におけて数えきれないほどの小説家たちが、この私小説形式で作品を書いていてきた。
作者は、いわば日本近代文学の伝統的なスタイルで本作「星条旗の聞こえない部屋」を書いている。そう、この小説は「日本人ではない」とかそういったことでセンセーションなのだが、スタイルはむしろ王道で、とても真っ直ぐに日本文学に挑んでいる。
ではどんな内容なのか
私が思うに、作者が本作で丹念に書いたものは、複数あるが、何よりそれは疎外である。
主人公であるベンをめぐる疎外を整理すると
1.父親が母親と離婚し、中国人の貴蘭と再婚したため、親族のユダヤコミュニティから縁を切られる。
父親は、アメリカで厳格なユダヤ教の家に生まれ、カトリックのベンの実母と結婚するのでさえ大変だったが、離婚し中国人の20歳若い貴蘭と再婚する。激怒された父親は、絶縁されている。そしてなんとベンも半ば絶縁されている。
2.複雑な家庭環境からベンも含め一家は、現地の外国人駐在コミュニティから浮いている。
家族は日曜日に家族団欒でホテルにブランチを食べに行く。ただ、そこで食事を食べているのは白人家族しかいない。そこでも父親は、貴蘭に上海語で話しかける。その姿は、周りから見て謎である。そして、貴蘭とベンの関係性も掴めないだろう。こうしたこともあってベンは、日曜日が憂鬱である。
3.今まで滞在していたアジアの地域同様に、日本でも現地の人々から、ガイジン扱いされる。日本の大学の語学コースを受けても日本人学生の英語の練習台として見られる。
そもそも、日常生活が過ごすレベルではないと感じられるくらい、外国人エリアから出れば、ベンは日本人たちから異物扱いである。正直、観光客に溢れる現代では考えられないが、この時代では状況は横浜といったエリアでさえ違ったものであっただろうと考えられる。
すなわち、ベンには安心して所属できる世界がない。
この対比になるのが、ベンの父親である。この父親は、社会と軋轢を重ねようと浮こうが自分を貫く。この父親も偏見の塊だが、同時に強力な意志の象徴である。この父親は、周りがなんと言おうが再婚し、周りにどう見られようと上海語で喋り、宗教は「儒教です」という上で嫌味も言う、そして働いて社会生活を送っているという、まだ不安定で10代のベンに強い存在感を感じさせる。
そして、そんな袋小路に陥ったベンに近づいてきたのが、あらすじの最後の学生、安藤である。彼も泰然自若だが父と同様に強烈な自分を持つ登場人物だ。
その彼が投げかけた言葉「なぜ日本語を話さないのですか」が、ベンに突き刺さることになり、後半のストーリーが展開することになる。
このセリフは、いろいろな意味を持つだろう。
物語的には、なぜ日本にいるのに、そして日本語コースの学生なのに話さないのか?最初にこれが当然ある。
そしてその言葉は、さらに、授業を超え、生活者として日本語を話さない限り、言葉を得ない限り、日本人社会にはおそらく切り込んでいけないと言う気づきをベンに与えるかもしれない。
上海語を操る父親は、言葉によって仕事を得て、貴蘭と結婚したことが示されている。そこでは言葉は力だ。力を持てるチャンスを生かさないのか?という問いにもなる
そして、言葉は当然可能性でもある。今いる社会でいったん身動きを取れなくなったベンに取って、すぐにではないが、言葉は大きな可能性を秘めている。そうなるとここでは、このチャンスをなぜ育てようとしないのか?これは一種の警告であろう。
本作が私小説だからといって、全てが作者の経歴と一致してるわけでは決してない。それでも、この小説の主人公を書いた作者リービ英雄の人生にとっては、この言葉をめぐる問題は恐ろしく大きかったに違いないと、私は彼の経歴をみて、そう率直に思うのだ。
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