📖後編「長崎の鐘と聖コルベ神父」終戦の日に寄せて🔔(ほぼ再投稿)
長崎 遠藤周作文学館
著書「女の一生」の中に 聖コルベ神父が描かれている。
1996年の 遠藤周作氏の葬儀(東京・麹町 聖イグナチオ教会)には
私も参列したが、長蛇の列だった。
黒崎教会
~遠藤周作「沈黙」の舞台~
フランス人宣教師(司祭)ド・ロの指導で建てられた教会
ド・ロ神父は、1868年(慶応4年)来日。
長崎市外海地区に孤児院を開設。
明治16年、黒崎村女子救助院を設立して授産活動を開始。
修道女として入った女性たちは、ド・ロの技術指導に基づいて
織布、編物、素麺、マカロニ、パン、醤油の製造などを行った。
明治19年には、住民を伝染病から救済するため「ド・ロ診療所」を開設し、社会福祉事業に挺身した。
他にも、オルガンをフランスから取り寄せる等、莫大な私財を投じている。
大野教会
信徒のためにド・ロ神父が設計し、私財を投じて信徒と建てた石造りの教会
五島列島が遠望できる
大浦天主堂
原爆による損傷の修復の完了後、現存する日本最古の教会建築として
1953年に 再度国宝に指定
(写真は全て2019年6月撮影)
聖コルベ神父(マキシミリアノ・マリア・コルベ)1894年~1941年
ポーランドのカトリック司祭。
1930年(昭和5年)に、修道士ゼノたちと共に長崎を訪れる。
長崎市街地を取り囲む山の一つ、彦山中腹の斜面に、
コンベンツアル聖フランシスコ会聖母の騎士修道院(無原罪の園)を創設。修道院内に現在の聖母の騎士学園の前身である「本河内神学校」を開校。
現在も発行が続いている月刊誌「聖母の騎士」を創刊させ、
日本国民にキリストの福音と聖母マリアの愛を伝えるための、
出版による布教を活発に行った。
前編で永井隆博士が飲んだ「本河内のルルドの水」は、コルベ神父が
フランスのルルドの洞窟と似ていたため、この地に作ったルルドである。
コルベ神父は、ポーランドに帰国した後、ナチスにより、
アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所に送られる。
1941年(昭和16年)、脱走者が出たため、罰として無作為に10人が選ばれ、
餓死刑に処せられることになった。
しかし、選ばれた中の一人の男が、「わたしには妻も子どももいる」と泣き叫んだ。
その時、コルベ神父は、
「私はカトリック司祭で妻も子もいないから」と身代わりを申し出た。
そして、コルベ神父と9人の囚人が、餓死室に押し込められた。
コルベ神父は、他の囚人を励ますため、一日中祈りを捧げる。
2週間後、コルベ神父を含む4人はまだ息があったため、フェノールを
注射され、殺害される。
その時立ち会った、通訳のボルゴヴィツの証言。
マキシミリアノ神父は、祈りを捧げながら自分で腕を差しのべた。
私は見るに見かねて、外へ飛び出した。
しばらくして地下に降りると、神父は壁にもたれて座り、目を開け、
頭を左に傾けていた。
その顔は、穏やかで、美しく輝いていた。
死者1,004人を出した青函連絡船・洞爺丸の事故では、自分の救命具を見知らぬ日本人に譲り、海に消えていった外国人宣教師がいた。
北海道では列車の暴走を止めるため、列車の前に身を投げ出した人もいた。
韓国のセウォル号沈没事故では、避難せず救命具を配って回った人がいた。
このようなことは数多あるだろうが、その全ての人が信仰を持っていたわけではないだろう。
私が前編・後編を通して言いたいのは、決して信仰・宗教のことではない。
どれほど力強く、堅固たる信仰を持っていたとしても、他人のために自分を犠牲にすることができるものであろうか。
キリスト教や仏教等において、自己犠牲や利他の概念はあるが、それは信仰を持つ人のみが理解し、実践しうるものではないと思う。
信仰の有無に関わらず、自らの命を投げ出して、親でも子でもない全くの他人を救う。
その行為は、如何なるものからきているのだろう。
それを、単純に「愛」と呼んでいいものかどうか、答えは見つからない。
戦争で亡くなった人は数えきれない。
お国のためという信念だったかもしれないし、そうではないかもしれない。
戦死を誉れと思っていたかもしれないし、無念だったかもしれない。
勇敢だったのかもしれないし、臆病だったのかもしれない。
そこには他が安易に想像できない、個々の想いがあり、個々の形がある。
ただ、無駄な死はひとつもない、あってはならない。
私事であるが、聖コルベ神父と誕生日が同じである。
20年ほど前かと思うが、キリスト教関連の書店で、
コルベ神父の生涯が書かれた絵本を買った。
それ以来、いつか長崎でコルベ神父さまに会いたいと思い続け、
2019年、それが叶うこととなった。
終戦記念日を前に、
戦争で亡くなった世界中の方々のご冥福を祈ると共に、
世界の真の平和と………
永井隆博士と聖コルベ神父の平安を祈る
Shalom שָׁלוֹם