死に関する記事のこと
私ここ1年程毎日投稿してきたおかげか、記事数が恐らく400本後半はあるのだと思います。
その内訳はネタや好き語りが8〜9割ほどで残り1〜2割がちょっとした自分語りだったり少し真面目なお話という割合です。
<その僅かがまとめられたマガジン>
そんな私の記事構成の中で過去に二度ほど「死」について正面から触れた記事があります。
私のnoteでは普段も殆ど触れることはない内容であり、フォロワーさんの傾向としてもあまり好んで読まれない話じゃないかなとは思います。
そんな記事[死んでお詫びという呪い]が気がつけばランキングで2位の位置を占めています。冒頭でも話した通り滅多に書かないジャンルのたった1記事がです。
1位はスターイクシオンというマイナーゲームの話題なのですが、こちらも何故この位置に?という謎の躍進を遂げた記事ではあるのですが2023年11月なので1年かけてこの位置まで上り詰めています。そしてその周辺の記事も基本的には似たり寄ったりの投稿からそれなりの時間が過ぎた記事達です。
そして今回話題にした「死んでお詫びという呪い」は2024年の5月・・・せいぜい半年程度しか経っていません。半年でこのペースですから恐らく何れトップに躍り出ることが予想されます。
[何が気になったのか?]
私ちょくちょく自分の足跡を振り返るようにしているのですけど、やはり独自の文章系の記事は話が面白くない(;´Д`)のかゲーム等のコンテンツものと比べて人気は薄い感じです。いや、noteは文章推しな分それでもバフはかかっているのかなとも思います。
なのでせっかく文章を書いているのだからコンテンツによる下駄を履かない記事でもある程度戦える様にはしたいなと思うのは物書きの性でしょう。
ただ・・・そんな願いを叶えるかのように伸びた記事が「自死」に関しての記事なのが複雑なところです。
これは私の記事の出来がどうこうというよりも、それだけ多くの人が「自死」について何かしらの関心を持っているからこその結果かなと思います。
もしかすると再度読んでくれる方もいるのではないか?
それはとても光栄なことなのですが・・・そうなるとその熱心な読者の方は「死や自死についてとても悩んでいる方」であり、私の文章はその方を癒しているのか悩ましているのか、はたまた追い込んでいるのかと新たな悩みが生まれるわけです。
[どんな人間がこの記事を書いたのか?]
私にとっての「死」は・・・今回はぼかさずにいきましょうか。私にとっての「自死」は他人事ではないものの、常に一定間隔の距離を保った関係だと思っています。
死ぬのはとても覚悟がいることだと思います。私は別に自分から死ぬ気はありませんが、同時に死ぬ気があっても早々実行に移せるだけの胆力は無いと思います。
ては「自殺」は遠い世界の話なのかと言われればそうではなく、これまで何時死んでも・・・結果的に自殺していてもおかしくなかったと思います。
それはどういうことかというと精神の摩耗や肉体の疲弊、とにかく追い詰められた結果で普段表に出ない選択肢が浮かび上がってくるわけです。
個人的に子供の頃から「どう生きるか?」より「どう死ぬか?」を考えてきた人間ですので「死」というのはそれ程縁遠いものでも無かったりします。
念の為補足しておくと「どう死ぬか?」は自殺の方法を考える等の話ではなく、自分の代で家を終わらせて人様に迷惑もかけず自分も苦しまずに人生を全うする的な死と向き合う方向性です。
[少し物騒な話]
普段話題にしないことに触れたわけですから、今回は少し深掘りしておきましょうか。
過去に無意識な自殺未遂がいくつかあります。
驚かずもう一度読み取って頂きたい言葉に「無意識」というものがあります。
そうなんです。自分から命を絶とうと行動したわけではなく、あくまで無意識下の行動なのです。
ですがこの無意識は別方向の問題を生み出します。
電車があれば無意識に飛び込んだかも知れないし、気がつけば手首に傷があったりと結構紙一重なところに「死」が寄り添っている感覚です。
その為ホームドアが無い頃の駅のホームでは壁に寄りかかっていましたし、自宅では一時期刃物を隠しました。
自殺というのは「死ぬぞ」と思って死ぬだけに限らないわけですよ。まぁ第三者的な視点をとれば「事故」との境界があやふやな感じとなりますね。
こんな感じなので未来で病気や不慮の事故以外で死ぬとすれば自分でも気がついたら死んでいた(異世界転生!)くらいじゃないかなと思います。
そんな人間が書いた記事なんですよ。
悩ましいのはこの私の生き様は別に特別なものではないことです。そう、何時誰にでも発生してしまう病のような衝動なんですよ。
ファンタジーなお話に興味を惹かれる方であればセイレーンという存在をご存知かも知れません。
船乗りを美しい歌声で惑わして帰らぬものとする魔物です。
死にたい気持ち、希死念慮や自殺念慮はセイレーンの歌声に近いのではとも考えます。正体は死神なんですけどね。私は勇敢にもその誘いを振り切った・・・わけではなく、臆病さ故に「知識」としてその声が持つ意味に気づいたからこそ引き込まれずに済んだのかなと思います。
まさかあの人が・・・という人が突然命を断ってしまうのは周囲に内面の葛藤を悟らせない強い精神力が尽きてしまったのか、もしくは歌声に疑問を呈すこともなく誘われるまま旅立ってしまったのかもしれません。死の空気が纏わりついた方、自分には関係ないと実際にそんな空気と無縁な方も「死」は平等にその背中に寄り添っているのです。
[呪いについて触れたけど、人を呪う記事ではない]
今回の記事もそうですが「死」について触れたものの、「死」にのめり込む内容というよりは「死」を遠ざける、または恐れず見つめることで適切な距離をとることを主訴としているつもりです。
野生動物に対して目を逸らし背中を向けて逃げ出さないことと似た話でしょうか?
目を離さず、後退りし、不幸にも向かってくるならあらゆる手段を試して生き延びる。
そこには「生」への願いを込めています。
そして「知識」はその願いを掴み取るための力になります。
[彼を知り己を知れば百戦殆からず]
実は私「死」を考えてきた割には「死」に関する知識を得ようとしたことがあまりないのですよね。知識は力と言っておきながら・・・
理由ははっきりとしないのですが、のめり込む性格から深入りすることを無意識に避けていた様な気もします。職業的には主にエンジニアでしたので業務内容に限ればあまり必要のない知識だったこともあります。
まぁ医療業界に足を突っ込んだり相談相手になる際はそれなりに学んだことはありますけど、腰を据えてという程では無かったですね。
とはいえ私もそれなりの年齢を重ねてきたわけなので、何処かで「死」に対して目を逸らさずに学ぶべきなのかもしれません。昔から注意してきた様にのめり込みすぎて逆に歌声に興味を示すことがないよう慎重に。目の前で手を伸ばした人の為、そして何れ無視できない現実となる自分の後始末の為に。
[最後に]
さて、先日趣味仲間がこの世を旅立ちました。丁度周囲の人間が最悪を回避し続けた中でトリを飾ってもらえればという最中での旅立ちです。
死の恐怖と向き合い最後まで全力で好きなものに魂を焚べた同胞の生き様に敬意を。
<前のお話>
<どくのぬまちをあるくのにそんなそうびでだいじょうぶか>
私のマガジンの中で唯一笑えない話や真面目な話を纏めています。 まぁフィクションですし(゚∀゚) シカタナイ