【甲陽軍鑑】高坂弾正という男
高坂弾正について
戦国時代、数多くの名将が活躍した中で、高坂弾正という人物がいます。甲陽軍鑑の制作者の1人でもある彼の人生は、多くの人々にとって驚きと感動をもたらすものでした。今回は、甲陽軍鑑品第五に書かれた高坂弾正の物語を紹介します。
臆病者と呼ばれた青年
高坂弾正は、信玄公の家臣の中で「一番の臆病者」として知られていました。その理由は、下々の者たちが「保科弾正は鑓弾正、高坂弾正は逃げ弾正」とからかっていたからです。実は、彼は春日大隅という甲州伊沢の大百姓の息子でした。
信玄公に奉公することになったのは16歳の時でした。信玄公が22歳の時に奉公に出ることになり、最初は小人として仕えましたが、すぐに近習に任命され、奥へ呼び寄せられました。そして、春日弾正の名を賜り、尼飾城や海津城を任されました。
奉公と努力の日々
奉公を始めた当初は、他の者たちから「あのような臆病者を取り立てるのは信玄公の目の錯覚だ」と言われていました。しかし、これが彼の身の薬となり、一層精を出して奉公に励みました。
ここで高坂が語る一つの物語があります。猿楽の高安という者がいました。ある時、高安は庭で若者たちと飛び比べをしている時、大倉九郎という者が「これほど軽く鼓を打てるならば、日本一になるだろう」と言いました。それを心に留め、高安は後に天下一の大鼓打ちとなり、高安道善と名乗りました。
このように、主君の愛によって才能を発揮することができるのです。高坂弾正も、同じように主君の愛によって百姓の子でありながら、高坂弾正として名を上げることができました。
主君への忠誠と成功
主君の愛によって、百姓の子であった彼も今では高坂弾正として名を上げています。彼は周りから悪く言われながらも、御前を大切に考え、奉公しました。信玄公の命令で越後の境まで働き、長尾謙信公に対抗し、海津城を持ちました。
主君の鋒先の強さがあったからこそ、このような成果を上げることができました。長沼や飯山まで手に入れ、彼はこの辺りの諸士を引き連れ、越後の境まで働きました。
終わりに
主君の御寵愛と人の誹りを堪忍することで、今では高坂弾正として分別ある者とされています。古人も「胯下の辱は小辱なれども、漢の功を大功とする」と言っています。彼のように努力し続け、主君への忠誠を尽くすことで、どんな境遇からでも成功をつかむことができるのです。