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【甲陽軍鑑】山本勘介という男

はじめに

今回は甲陽軍鑑品第二十四に書かれている山本勘介に関するエピソードを紹介します。

山本勘介とは?


山本勘介は戦国時代の日本の武将です。主に武田信玄に仕え、優れた兵法家であり軍配者で武田信玄の軍師のようなポジションで紹介されることも多いです。築城も得意であり彼が伝えたとされる築城技術の遺構は現在でも確認することができます。

甲陽軍鑑品第二十四の概要

・山本勘介の仕官
・諏訪姫側室の経緯
・武田信玄と山本勘介の問答

山本勘介の仕官

天文12年(1543年)1月3日、武田家の家老たちによる会議が行われます。城の作り方が良ければ1000人の敵に攻められても300の兵で守ることができる。この城の設計について知っている剛の者が駿河に居ると評判だと話題になりました。この剛の者こそが山本勘介のことです。

重臣の板垣信方は武田信玄に山本勘介を召し抱える事について相談をし、甲斐に呼びました。

山本勘介の登場

勘介は手や足に数カ所の傷を持ち、外見は色黒で見た目があまり良くないものの、名声が高く、実力があると認識されていました。初めは知行百貫での約束でしたが、武田信玄は面会のやり取りの中で勘介の武略を評価し、二百貫に増額されました。その年の暮れ、霜月中旬に信州に出陣し、下旬から十二月十五日までの間に九つの城が落ち、信玄公の手に入ったのは、勘介の武略のおかげです。この時、晴信公は二十二歳でした。

諏訪頼茂の誅殺

天文13年(1544年)の2月、武田晴信公は信州諏訪に出向きました。板垣信形が提案し、典厩信繁を使者として諏訪頼茂の元に派遣しました。諏訪頼茂は晴信公との交渉で和睦に合意し、甲府への出仕を約束しました。

その後、頼茂は甲府への出仕の際に中間頭の荻原弥右衛門によって成敗されました。この事で諏訪勢たちは敵となり、連坊を大将として甲信の間で争いが再び起こりました。

諏訪侵攻

天文14年(1545年)正月19日、武田信繁を対象として板垣信形、日向太和守が諏訪に向かいました。同年2月、先鋒の板垣信形は諏訪の軍と戦い勝利しました。諏訪の軍を撃破し、300人以上の雑兵の首を取って勝利を収めました。その結果、板垣信形は諏訪郡の代官として認められ、典厩にも諏訪衆が配属され、伊那衆や松本、小笠原勢への侵攻が始まります。

諏訪頼茂の娘と武田勝頼

諏訪家の断絶後、頼茂の娘(諏訪姫)が14歳で美しいと評判になりました。信玄公公は彼女を側室に迎えようと考えましたが、家老たちはこれに反対しました。山本勘介は、諏訪家の娘を迎え、男の子が生まれたならば諏訪衆の心をつかむ事は間違いないと進言しました。この提案が受け入れられ、ついには天文15年(1546年)に四郎(勝頼)が誕生しました。

山本勘介と信玄公の問答


信玄公が山本勘介に、弓矢の使い方や国を攻め取る方法について尋ねました。勘介は、強い国を攻めるには少なくとも五年かかり、その間に実績を示さなければ治まらないと説明しました。また、敵が少しの戦闘で一つや二つの国を治めることもあると述べました。

勘介は、近国との平和を保つためには、土地を持たない大将や一郡だけを持つ侍と良い関係を築く必要があるとアドバイスしました。また、先方の人々の状況をよく見て対応することが重要だと述べました。

晴信公が国を攻め取った後の管理についても尋ねると、勘介は、その国の内情を把握し、有力者をうまく扱うことが必要だと答えました。最後に、真田弾正を呼び寄せる提案もしました。

山本勘介の活躍


山本勘介については、他の品でも多くの活躍が見られます。他の活躍についても追々ご紹介したいと思います。

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ざっくり甲陽軍鑑解説
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