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コシノヒロコ展でじぶんだけが充満する
ちょうど先週に兵庫県立美術館で開催されている「コシノ ヒロコ展 EX-VISION TO THE FUTURE 未来へ」を見に行きました。
試行を重ねる
わたしはひとつ、強く思ったことがありました。自分には試行が足りない、と。思考ではなく試行です。じっと考えていても、今の自分から何かを発展させることは難しいんじゃないかと思います。だから、手を動かし、試してみる。それが本来の考える姿なのかもしれないなと思ったのです。
ちょうど先日、こんな言葉を見かけたばかりです。
考えるという事の原質は、まずエンピツをもってザラ紙に意味のない模様を書きなぐることなのではないか。そしてそこから湧いてくる感情と出会うことなのではないか。 加藤典洋
もちろん正解なんてないと思います。けれどもわたしは二月の石岡瑛子展で、学生時代の彼女のたくさんのスケッチを見ました。そしてここ、コシノヒロコ展でもたくさんのスケッチの一端を見ました。
コシノさんは学生時代に1日30枚のスタイル画を描いたそうです。途方もない数のように思えます。
わたしにできることは、授業を通して授業で扱われるテーマについて考えを広げること、課題に取り組むこと、いろんなものを作ること、本を読むこと。それもひとつひとつが試行の数々です。たくさんの試行をしてもっと自分を発展させたいと思うばかりです。
これはただの若ものの口先だけの宣言ではありません。心からの声明です。なぜならこれらの試行はワクワクする世界への切符のような気がしたからです。ここから広がる、コシノさんのワクワクする世界。その世界をわたしははっきりと体験してきました。だからこれからわたしの行っていく試行も、ワクワクするようなものが待っているかもしれない。そう思えることこそがもうワクワクなのです。
「本気でぶつかっていけば神様が助けてくれる」
ふしぎと、すとんと自分の中に降り立って、足をかるくしてくれる言葉です。コシノさんが生をもって体感している言葉だからでしょうか。生をもって。生をもって。
絵を描いてみたい
そして、わたしも絵を描いてみたい。
そう思いました。絵のようなスケッチのような。自分のそのときのからだの調子が可視化できるもの。心の様子が立ちあらわれるもの。思考を確立できるもの。
「いさぎよさがあなたらしさをおしえてくれる」
上の写真の言葉群を見て、絵を描くってそういうことなのか、と腑に落ちました。
ひとつの線を引く、それだけでも絵になる。その線にわたしがこもっていれば。わたしの調子で線を引くことができたなら。
この言葉はひとつの励ましになりました。わたしは絵に苦手意識があります。絵は、ほんとうに得意ではありません。しかも今の大学は絵が上手な子が多くやはり比べてしまいます。わたしは日々作品を作っているからか、周りに絵も描けるんでしょ?と思われがちです。いえ、ぜんぜん描けませんよ、と返答したことは何度もあります。絵が描けないから、パソコンに描かせてるんですよ。絵が描きたくても描けないからコードで描いてるんですよ。
絵が描けないことについてとやかく言いましたが、きっと、正当な絵なんてものは決まっていません。コードで絵を描いているわたしが一番知っているはずです。
(わたしがコードで描いた絵)
コシノさんは自分で描いた絵を、服のアイデアのもとにしているようです。
コシノさんは様々な色彩の、様々なテイストの絵を描いていました。昔は画家を目指していたそうです。この絵のさまざまを見ていると、楽しい!という感情がぐんぐんとあふれていくのが感じられました。絵を描くのたのしそう。原始的な感情です。
こどものときは、うまいとか下手とか気にせずに、絵を描いていたように思います。そのようにわたしも、絵を描きたい。
こどもになる
こどもになるってどういうことだと思いますか。
わたしは、自分の気持ちだけになることかなと思います。世界が自分の気持ちだけになる。何かを見て、たのしい!とかきれい!と思う、そのときに世界がその何かと共にわたしの気持ちだけになる。
そのような感覚は時たま体験します。わたしはその体験のことを今まで「風が吹く」と形容していましたが。コシノヒロコ展でもわたしはこの感覚を体験します。それは最後の展示空間。
そこは空間自体がアニメーションとなっていました。普通はひとつの画面だけで見るアニメーションが、部屋の四方にプロジェクターで投映されている。アニメが部屋を流れ動くのです。わたしたちは、空間で動くアニメーションをからだや目をぐるぐる回転させながら見ました。
そのアニメでは、主人公たちがいました。こどもです。こどもの姿はしていませんがこどもです。こどもの目を通した世界が描かれます。どんどんと展開されていく世界の中で、わたしはわたしの感情だけになっていました。もう、その空間が形成する世界に取り込まれてしまっていたのです。主人公たちの冒険にこころが、こころが踊りました。ドキドキしました。一緒に叫び声もあげました。わあと感嘆の声を吐きました。このときのわたしには、大学も課題も友達もなく、病気も悩みも世間も社会もありませんでした。この感覚!忘れません。絶対に忘れません。
わたしはこの感覚を大切にしたいです。この感覚は珍しいものではないこともわたしは知っています。入院中に外へ出て海岸を見に行ったとき、ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番を聴いたとき、アニメ「どろろ」を観たとき、佐藤輝明選手の一試合で三つ目の本塁打を観たとき。たくさんあります。この感覚を、わたしは逃したくないと思いました。それも、記録したいと思いました。ここに書くことも、記録にします。
さいごに
展示を見て日をあけてから感想を書いてみました。
ちなみにこれは見に行った日に書いた感想です。
コシノヒロコ展行きました。最後のコシノさんの言葉「これは単なるアーカイブではない」にはっとしました、豊かさとは何か。この空間になにかときめきのような気持ちの変動が感じられたら、その気持ちは何なのか。この色彩がとても好きだという感覚、アニメーションの中の鳥と同じ気分になる感覚 pic.twitter.com/GsjaUHJfnZ
— ねじおさん (@shirasu_nejio) May 23, 2021
見たあとによかったね、という言葉では終わらない。展示空間ごとに世界もガラッと変わって、空間ごと楽しめて別の世界へ行ける。そしてたしかに脈打つ胸を感じる、わたしはここでこどもになれたと思います。たくさんのものを描きたいと思いました、気持ちの具合を確かめるための線も、ものになる
— ねじおさん (@shirasu_nejio) May 23, 2021
もしなにか、少しでも思ったことがあったら、コメントください。勉強になります。