ともいきな人助け ~助けて"あげる"からの脱却~
思えば、人を助けたいと思うこと自体が傲慢な行為だったのかもしれません。
だれかと助ける・助けられるという関係性を作ることは、一方的かつ傲慢に相手との上下関係を築くことと大して差がないことのようにも思います。
憐みの目を向け、自分の優越感を感じるために誰かを助けるという行為を利用する人もいるのかもしれませんね。
何にせよ、人助けという行為は、ちょっと間違うと「ともいき」から大きく外れた行為になってしまうのだと思います。
突然ですが、告白します。
私は人を助けようとして、失敗しました。
詳しくは話せません。
一つだけ、こんなことなら、最初から何もしない方が良かったかもしれないと思うくらいに相手を傷つけたことは確かだと思います。
この手記は、どうしようもない後悔の念と、悲しみを受け止めて、
それでもこれから前へ進もうとする自分を、記録するものです。
なぜなら、きっとまた、同じことで悩むと思うから。
「助けてあげようとした」
最近ようやく経済的に自立してきて、だれかを多少助けることならできるかもしれないという思いが出てきました。
でも失敗しました。
自分が思うよりずっと、特に精神的な意味で私は子供だったのです。
おぼれている人を助けようとして、海に飛び込み、そのまま一緒に亡くなってしまう人がいます。
おぼれている側は必死にしがみつこうとします。すでにパニックなのでしょう。
誰かを助けようとするなら、それでも相手を落ち着かせ、安定して泳ぎ続けるだけの、どっしりとした自分をたもてなければいけない。
そもそも私は自分だけでも助けられる技量を本当に持っていたのでしょうか。
否、きっとそうではなかった。
一方で、もっと考えてみると、そんなこと可能なのでしょうか。
自分ひとりで誰かを助けるなんて。
成長していけばいつかはそうなるのでしょうか。
ともいき的に「助ける」
考えてみました。
前提として、私はきっと一人では生きられません。
物理的・精神的・社会的な意味で。
これは周知の事実でしょう。
そしてこれを読んでいるあなたも、多くの人はきっと一人では生きられないのです。
では、一人で生きられない中で、困っている人に対してどうすれば相手を助けられるのか。
私は人とのつながりの中で生きています
そのつながり全体を使って、彼女を包み込めばよかったのではないでしょうか。
私一人では助けられなかったとしても、親なり友人なりの力を借りて、支えられなかったと思っています。
人を助けるというのはその人を助けるための網目を増やすのを手伝うような行為なのではないでしょうか。
お互いに助け合い、豊かになる
もっと考えてみます。
私は彼女との共同生活を楽しめていたのでしょうか。
彼女を支えもてなすことを考えすぎるあまり、無理をしていたような気もします。
彼女に助けを求めてもよかったのかもしれないですね。
もっと「お互い様」だと思えばよかったのに。
心を緩めて、楽しめればよかったのでしょう。
一緒にいられることを、ともに生きられることを喜べればよかった。
彼女が一緒にいてくれることを幸いだと思えればよかったなぁ。
そんなわけで、ともいき的には、助ける助けられる助けないとかそんなことよりも、一緒にいられる、「助けたいという気持ちを行動に移せる距離に相手がいる」だけで、良いのだと思います。
ともに時間を過ごし、些細なことでも心の通い合う瞬間があれば、それがすべての基点となり、糧となるのだと思います。
その気持ちを感じるところから始めればよいのでしょう。
ここまで書いてみて、いつも仲良くしてくれる友人や家族への気持ちもすこし変わってきました。
どうか、彼女もどこかで誰かとともにあり、幸せを感じてくれていますように。