すべては欲望から始まる『新・哲学入門』竹田青嗣著 読了
<概要>
と著者が最終章で述べた内容が本書の趣旨。
著者の大作『欲望論』の概要版として、「欲望論」を「新・哲学」という名に置き換えて出版された新書(「入門」とはいえ、それなりの哲学的素養必要)。
<コメント>
竹田青嗣の最新作読了。人によって「哲学とは何か?」が違って当然だと思いますが、そして哲学とは、任意の前提(神、教義、神話、聖人、ウヨク、サヨク等の個別の共同的価値観=イデオロギー)をおかずに理性でもってこの世界を説明する学問のことだと一般に言われていますが、竹田哲学は現時点、最も説得力のある世界説明ではないかと思います。
しかし残念ながら竹田哲学は、大型書店や図書館の哲学コーナーにいけば分かる通り、世界的にはもちろん日本においても主流とはいえません。もうちょっと理解者が増えてくればと思ってしまいます。
さて本題ですが、内容は『欲望論』そのままなので、おさらいする感じになります。
■すべては欲望からはじまる
私たちに見える世界ってどうなってるんでしょう。今自分が見ている景色と、同じ景色を例えばスマホで写真撮ってみるとわかりますが、写真で見た景色と自分が自分の目で見た景色と全く違って見えているはずです。
これは他の人と会話しても同じです。例えば自分の恋人でも配偶者でも誰でもいいですが、隣りにいる人と同じ景色を見ているはずなのに、隣の人は別のものを見てるし、私は別のものを見ている場合があります。
スマホのカメラで撮れば、自分の関心ごと以外のものも平等に写ってしまうので、また別の景色になっているし、隣りの人とは興味あることや関心あることが違うので、同じ景色を見ていても変わってしまうのです。
つまり、私たちは「自分の興味あること」「関心あること」の方に自然と目がいってしまって自分の関心外のことには目がいきにくいのです。
これら「興味」や「関心」のことを著者は「欲望」と称し、私の世界は、すべては「欲望からはじまる」としたのです。だから「世界は、はじめからある」のではなく「自分の欲望と関心に応じて自分が作っている」のです。
そうやって考えると自分以外の人(=他者)が見えている世界は、どんな世界かは、私たちは永遠に知りようがありません。
が、一方で人間は社会的動物であり、群れで生きることで生き残ってきた動物です。なので、私たちはどうやって群れ(=社会or共同体)で生きているかというと、実際に会話して感じあって、コミュニケーション取って、相手に見えている世界と共有できる世界を作る。
こうやってお互い擦り合わせしてお互いが納得しあったものの集合体が、それぞれのコミュニケーションの単位で成立しているのです。
この単位が具体的人間関係(家族、学校、友達関係、趣味仲間、職場、たまたま今日居酒屋で会話した見知らぬおじさんとの関係など)で、このような他者とのコミュニケシーションの擦り合わせ作業のことを、哲学者ヴィトゲンシュタインのいう「言語ゲーム」と著者は称しています。
つまり言語ゲームの単位(=人間関係の集合体=共同体)ごとに私たちは、他者とその世界観(=価値観)を共有しているのです。
■私たちの価値観は、どうやって形成されたのか?
「すべては欲望からはじまる」という認識論のもと、このあと善悪と美醜の原理について論じていきます。
著者は、何が「善か?美か?」と問うて「それは何(WHAT)だ」というのは本体論=形而上学だとして批判(詳細は以下参照)。
むしろ、「(善・美含む)価値観はどのように成立しうるのか?その原理こそ問うべきだ」、つまり「どのように(HOW)」こそが普遍的なもので「WHAT」に普遍性はないと考えているのです。
なぜなら、社会ごとに言語ゲームを展開しつつその人間関係単位ごとに、価値観は揺れ動きつつつ変容し続ける動的な性格を持っているからだと思うのです。
そこで、どのように成立しうるのか?については「発生論」、つまり私たちが生まれて育ってくる中で、価値観は具体的にどうやって形成されてきたのか?に普遍性があると想定し、具体的に「善→道徳論」「美→芸術論」について展開していく、というストーリーになっています(個別の内容については余裕があれば別途展開します)。
■分断を克服する哲学の手法「本質洞察」
そうやって大人になった私たちは、個別に形成された価値観をベースにお互いが、忖度なく前提条件をおかずに、共有できることについて開かれたテーブルの中で、お互い言語ゲームを展開していけば、おのずから合意に向かって進んでいく。その手法を著者は「本質洞察」と呼んで、私たちが同じ世界(=間主観的信憑という)を共有するための有効な手法だとします。
そうやって「争いごとをなくしていきましょう」というのが竹田哲学の目的。
これって、近代以前の日本の農村もアラブ社会における「全員合意制」と同じだなと。
例えばかつての日本の農村では、宮本常一の『忘れられた日本人』を読むと、すべて決め事は寄り合いによる全員合意制で決めていたらしい(本質洞察していたかどうかは?)。
例えば、対馬の農村では、寄り合いでの決め事は、全員が納得するまで議論し、長いものでは2・3日かかって決めていたといいます。
なんと対馬に伝わる村の記録では200年以上前からこの方式をとっており、たぶん農耕社会になってからは、おおよそ全員合意に基づくルール作りが行われていたのでしょう。
そして、おおよそ3日かければ難しい話も大体は合意できたそうで、決まったからには全員がちゃんと守ったそうです(そうでないと文字通りの「村八分」)。
この寄り合いでは上下関係はほとんどなく、取りまとめ役が上手に制御しつつ全員の合意を促したとのことで、まさに著者のいう「公共のテーブル」そのものです。
実は今に生きる狩猟採集民、アフリカのサン族もほぼ同じ。
以上、著者のいう「普遍性への一般意志」は、事例が過去にもあるように決して無理な方法ではない、むしろ原始時代からずっと機能してきた人間本来の手法なので、私たちも忖度せずに誠意をもって開かれたテーブルの上で率直に話し合えば、もしかしたら分断は少しは回避できるかもしれません。