「共感」こそが善悪の原理:ヒューム著『人性論』
私のかつてのカトリック信者の友人の結婚式で、神父が新郎新婦に対して贈る言葉として『聖書』からではなく『論語』から引用したのは、意外なことだったので今でもよく憶えています。
神父は、
という言葉を贈ったのです。この言葉は、孔子の弟子「子貢」が「一生涯守るべき価値ある言葉とは一言でいうと何ですか?」という問いに対し、孔子がその答えとして述べた言葉。
この言葉の冒頭に「それ恕か(まあ恕だね)」というのがあるのですが、恕とは「思いやり」みたいな意味ですが、これを一言でいうと「己の欲せざる所は人に施すなかれ」ということなのです。
『人性論』を読む限り、スコットランドの偉大なる哲学者ヒュームの道徳論も、この言葉に尽きるような気がします。
ヒュームは道徳論、つまり何が善きことであり、何が悪しきことであるか、は「共感の原理」に基づく、というのです。
「何が善くて何が悪いのか」は端的にそれは「何」ですとは永遠にいえません。なぜなら、生きる時代や場所・場面によって「何が善くて何が悪いか、は変わっていく」からです。
たとえば誰もが「悪だ」と思われる「人殺し」でさえ、普遍的な悪ではありません。
今の日本を例にとれば、「死刑に値する犯罪を犯した人間を殺す」という人殺しは「悪」ではありません。自衛権の行使も同様です。別の政治権力が日本の領土に攻めてきたときに、その領土を守るべく攻めてきた政治権力の人間を殺すことは「悪しき事」ではありません。むしろ「善き事」です。
人が心地良い、心地悪い、あるいは人が望むこと、人が嫌がること、は、その中身は生きる時代や場所・場面によって違っても、それぞれの社会の中で必ずそういった善悪の基準(=社会規範)があります。
なのでヒュームは孔子同様「何が善くて何が悪いか」ではなく、人の共感するという気持ちにしたがって「善悪は指し示される」としたのです。
これが「共感の原理」。
同時代に生きた哲学者ジャン・ジャック・ルソーが「社会契約論」で
と言っているのと近い感じもします。「何に正統性があるか」ではなく、その社会の「合意できることに正統性がある」と言ったのです。「中身ではない」のですね。その方法というか、コンセンサス形成の原理なのです。
では何が心地よくて何が不快なのか、それは
とし、人間は「自然の本性」として社会でうまくやっていこうという性質からではないか、と推定しています。そしてそれは共感の原理からだともしているわけです。これはアリストテレスの「人間は自然によって国家的(ポリス的)動物である」にも通じる考え方ですね。
生物学的にも「社会性一式」という人間の先天的習性が人間を繁栄させたとされていますがこれも「共感の原理」を包含する原理。
また、ヒュームは芸術論に関しても、簡易的ではありますが「共感の原理」によるものと言っています。「美しい」とみんなが共感できるものが美しいものであって「何が美しいか、ではない」ということです。
この辺りも本当にそうだな、と思います。ファッションみたいに生きる時代や場所によって「何がクールで何がクールじゃないか」は変わっていきます。
芸術も、時代を超えて、美なるものはもちろんあると思いますが、基本的には諸行無常の世の中のように変わっていくものでもあります。これは道徳も同じ。
道徳と芸術が同じ「共感の原理」で説明できる、というのも「なるほどな」と思ったしだいです。
■新海誠監督のインタビューより
共感の原理は今も生きているんですね。新海監督はさらにこう言います。
共感の原理が善悪の規範を形成し、人間社会を成立させ、人間の幸福を育むのかもしれません。
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