「滋賀の風土」近江商人は、楽市楽座から
三方よし(売り手よし、買い手よし、世間よし」で有名な近江商人は、日本の三大商人の一つ(他は大坂商人、伊勢商人)。
今の企業でば、伊藤忠商事・丸紅(豊郷町)、西武鉄道(東近江市)、髙島屋(高島市)、西川産業・たねや(近江八幡市)などが現代に生きる近江商人。
近江=滋賀県は、東海道や中山道・東山道、若狭街道など、列島の日本海側・東側と関西方面とが交差する交通の要衝だから、各地に物を売りに行って儲けるには最適な場所。したがって商業が発達するのは当然ともいえます。
⒈楽市楽座の結果としての近江商人の誕生
その近江商人ですが、交通の要衝という地理的要因と同時に楽市楽座という制度が近江商人を誕生させる、そのきっかけになったのではないかと思われます。
楽市楽座は、自由な市=フリーマーケット、自由な座=「座」という、寺社権力が認可する組合に属していなくても「誰でも商売していい」という意味で、織田信長が始めたともいわれています。
ところが、最近の研究では室町時代に南近江の守護大名だった六角氏が始めたというのが今の所の説になっているらしい。より正確には始めた、というより「始めざるを得なかった」という方が正しいか。
というのも前回忍者編でも紹介した通り、近江は自治意識の強い地域で「忍者」で有名な甲賀地方の自治組織「同名中」が発展したのも、地元の守護大名「六角氏」が黙認したからですが、彼らの自治統治力が強すぎてむしろ黙認せざるを得なかったからかもしれません。
六角氏は、応仁の乱が落ち着いて以降、近江領内の寺社権力の領地(荘園)を彼らに返還せず、京都の寺社権力が幕府に訴えて、返還してもらうよう交渉するのですが、近江では六角氏の方が幕府よりも強いので、六角氏は幕府の言うことを聞きません。
このため近江では、商人に対して寺社権力が徴税する権利を持っていた「座」制度も荘園制度同様に立ち行かなくなって消滅。結果的に「楽市楽座」になってしまった、という印象。これを六角氏が黙認したのです。
さらに下って江戸時代では、近江国内の領地が藩領や天領・寺社領などに細かく分かれていたため、領内ごとの自給自足が難しく流通が盛んになったことも近江商人が発達した要因とも言われています。
⒉なぜ「三方よし」なのか?
三方よしでは「買い手」と「売り手」が利益を分け合うのは当然です。それこそ商売の基本ですから。よく話題になるのは最後の「世間よし」です。
⑴なぜ「世間よし」なのか?
これは簡単で、近江商人は近江国外で長く続く商売をしていたから。というよりも国外で商売して成功するのが近江商人の真骨頂。
近江国外において、近江からやってきたヨソモノたる近江商人が商売するためには、まずは信用を得なければいけません。例えば江戸で儲けたら江戸でその利益を幾ばくかは還元して地域に貢献しないと信用を得られない。利益もほどほどにして買い手にも喜んでもらいつつ、持続的に地元に利益還元することで「ヨソモノ」ではなく「ミウチ」として扱ってくれるよう努力したのが近江商人。
道義や義理を優先し利益を後回しにするという「先義後利」といいう儒教の「荀子」由来の有名な言葉もがありますが、先義後利の精神で商売しないとヨソモノは、商売できないんです(近江と関係ないが百貨店の大丸も「先義後利」を社是としている)。
現代経営では、CSR(企業の社会的責任)の先駆けだとして「世間よし」が評価されていますが「世間よし」でないとよそ者は商売できないという必然からであって、とってつけたようなCSRではありませんでした。
⑵儲けは社会にばら撒き、自身は質素な近江商人
これは、伊藤忠商事や丸紅のルーツである豊郷町の「伊藤忠兵衛記念館」に実際に行くと体感できます。
建物自体、大邸宅ではあるんですが中は本当に質素なんです。実利一辺倒といったらよいのか?商売に必要な最小限のものしかない。大邸宅にありがちな立派な床柱もないし、お庭も至って簡素。
後述のたねやオーナー山本昌仁氏によると、近江八幡などの近江商人の街では歴史的に高級料亭などの旦那衆の遊ぶ場所がほとんどないので、会合の場所に困っているなどとその質素ぶりを伝えています。
日本全国あらゆる金持ちの邸宅(東京、京都、大阪、奈良、和歌山、三重、兵庫、栃木、山形など)を見てきましたが、伊藤忠兵衛邸宅は本当にお金かかってないんですね。
近江商人の中でもそれぞれそのレベル感は違っていて、東近江市の五箇荘にある藤井彦次郎邸なんかは、スイスの別荘を真似た洋館などもあってそこそこ贅沢なつくりなんですが、伊藤忠兵衛宅の質素さは際立っていて本当に何もないんです。
さらに伊藤忠兵衛に関心させられるのは「企業は社会の公器」だとして世襲しない(1960年〜)。そして現代の伊藤忠商事も丸紅も、ここ滋賀県豊郷町の伊藤忠兵衛宅に新入社員を研修で連れてきて伊藤忠兵衛の精神を学ばせているらしい。
恐るべし「近江商人」。
⒊それぞれに興味深い近江商人
近江商人と言ってもそれぞれ地域(日野・五箇荘・八幡・高島など)で特徴があります。近江商人共通の特徴は、「三方よし」のほか、近江国外(北海道から九州まで日本全国)で商売し、商売先と近江の間を行き来しながらそのその道中は行きも帰りも商材を背負って売上を増大させようと目論んだこと(これを「のこぎり商い」という)。
以下興味深い事例を紹介。
⑴「近江日野」は伊勢商人のルーツ
昨年紹介した以下ブログでも若干触れましたが、伊勢商人のルーツは日野の近江商人ではないか、と言われています。
三重県松阪市は近江日野出身の戦国大名、蒲生氏郷が開発した町で、
近江日野から近江商人を強制的に移住させ、松坂に楽市楽座を導入して商業を盛んにしたわけですから、まさに近江商人は伊勢商人のルーツ。
その近江商人の街でもある近江日野は、日野に残った人々で漆器や薬売りなどして商売を継続。
この前、栃木県宇都宮市で驚いたのは市内中心部に「日野町商店街」という名の商店街があったこと。日野町商店街振興組合によれば、日野町商店街は宇都宮で最も古い商店街。実は秀吉の命で宇都宮を一時的に統治していた蒲生秀行(氏郷の息子)が、親父同様、近江日野の商人を宇都宮に連れてきて、ここに商人の街を作ったからだとか。
⑵「近江八幡」蚊帳で儲けた西川産業・日本有数の菓子屋たねや
近江八幡は室町時代、六角氏統治下で盛んになった「観音寺山」の麓の楽市楽座が、
織田信長の安土城築城に伴って、観音寺山のとなりの山「安土山」に引っ越し。
さらに秀吉の時代になると秀吉の甥っ子の八幡城築城に伴ってさらにその隣の「八幡山」に引っ越し、
ということで最も由緒ある近江商人の街。
①戦国時代から続くふとんや「西川産業」
西川家は、上の伊藤家と違って今でもその子孫の15代目「西川八一行(養子の方ですが)」氏が西川産業を経営しています。
その15代西川氏によると西川家の初代仁左衛門は、豊臣秀次が八幡山城築城するにあたり、その工事監督を請け負った人物だそう。ただ、歴史好きならご存知のように秀頼誕生で秀次は自害に追い込まれ八幡山城は廃城。
この結果西川家は、外に出て商売せざるを得ず、布織物を持って能登に商売に出たそうです。その後、江戸時代は2代目甚五が江戸日本橋にて蚊帳で儲け、11代目甚五郎が明治時代にふとんで今の商売の基礎を作ったという(今でも日本橋には西川産業が顕在)。
ちなみに西川家は、江戸時代7代目利助の時に日本で初めてボーナスを支給した家とのこと(年に2回利益の三分の一を従業員に支給)。
②現代の近江商人「たねや」
近江商人つながりで、日本全国の百貨店に出店し、滋賀県一の集客を誇るという施設「ラ・コリーナ」を展開する近江八幡の菓子屋「たねや」の現オーナー山本昌仁氏が著した以下書籍を読んでみました。
たねやも相当に特殊な企業で、これは滋賀県一の集客を誇る近江八幡「ラ・コリーナ」に行くと実感できます。ラ・コリーナは、八幡山の麓にあってもともと厚生年金休暇センターだった場所をたねやが23億円で買取り、八幡山含めてこの一帯を里山として整備すべく地道に活動してきたらしい。
そして「ラ・コリーナ」という施設は、近江商人の精神を受け継ぐ施設としてたねやが開発。
まさに「世間よし」の精神で、たねやの地元「近江八幡」の原風景を取り戻すべく、ラ・コリーナには昔から近江八幡に自生していた雑草や樹木を植えているのだとか。
⑶「高島」の近江商人、髙島屋の「おかげにてやすうり」
日本全国に百貨店やショッピングセンターを展開する髙島屋の創業者飯田新七は、福井県敦賀の出身。ですが滋賀県高島出身の京都の米屋「髙島屋」を営む飯田儀兵衛の娘と結婚してその養子に。
独身時代に営んでいた古着屋をそのまま養子先でもはじめたのが今の髙島屋のルーツ。
新七が当時の江戸時代後期、全国的に流行っていた「お伊勢参り」にちなみ「おかげにてやすうり」という店是を掲げ、できるだけ利を薄くして「買い手よし」を徹底したのが髙島屋が当時繁盛した理由だと言われています(出版文化新書『髙島屋』より)。
ちなみに、トヨタ自動車の豊田章男会長は、何らかの記事で自分は祖母の豊田二十子さんに様々な教訓を教わった的なことを言ってました。実はこの二十子さんは旧姓は飯田二十子さんで、髙島屋飯田家の出身。章男会長の哲学にも、もしかしたら近江商人である髙島屋飯田家の教えが影響しているかもしれません。
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