21Lessons ユヴァル・ノア・ハラリ著 書評
全世界で話題のハラリの著作は、ホモ・サピエンス全史→ホモ・デウス→21Lessonsの順番で通読をお勧めします。本書は、これまでの著作に引き続き、現代世界の世界像と近未来像を解明するとともに「では著者自身はどうするのか、どうしているのか」を解説。
各章にこれでもかとばかりの実例=ファクトをあげつつ、かつ読者に分かりやすいように、絶妙なそのファクトの組み合わせによって独自のロジックを編み上げていくその筆力は、その博識さや知性もさる事ながら、説得力あるその表現にどんどん飲み込まれていくような圧倒的な読後感。
個人的に近代西洋哲学の認識論的観点からだったらハラリはどのように世界像をアップデートするだろうというのがちょっと物足りなさを感じてしまうものの、現代最高の知性の一人と言って間違いないのではないでしょうか。
グローバルな社会の虚構は、共産主義とファシズムの戦いに自由主義(ピンカー的には啓蒙主義、近代哲学的には近代市民社会の原理)が圧勝。
しかし自由主義という社会の虚構は、情報テクノロジー(IT)とバイオテクノロジーにおける双子の革命によって信用を失いつつあるという。
したがって「現時点で最も有用な社会の虚構は自由主義である」という前提のもとに、その欠陥を指摘するとともにその克服をしていくことで自由主義を今後も継続するようアップデートすべきとの提言。
途中で、世界の課題を4つの質問で政治家を選ぶべきとし、そのうちの3つが世界の課題。
①核戦争、②気候変動、③情報テクノロジーとバイオテクノロジーの二つの革命
核戦争や気候変動は、スティーブン・ピンカーやジャレド・ダイアモンドと同じだが、特に③に関しては「規制すべき」と明確にネガティブな見解。
③の二つの革命(特に情報革命)によって起こる世界の課題は「雇用の大量喪失」。
近い将来、ビッグデータとアルゴリズムを操るごく少数のエリートと多数の無用化した大衆に2極化すると予想(ホモ・デウスとほぼ同じ)。大量のホワイトカラー含めた定型業務が喪失すると想定され、これはかつての資本家から労働者への搾取という次元ではなく、労働者の存在意義そのものを喪失させるという。ただし、エリートへの課税強化による所得分配によって残された仕事やこれまで仕事と認識されていなかった育児などの労働に対する最低生活保障的な給料の与え方、最低生活保障(ベーシックインカム)、または社会主義的な最低サービス保証などが必要になってくるかもしれないとのこと。
個人的には、情報テクノロジーは飛躍的に進化するとは思いますが、少なくともここ50年ぐらいのスパンでいえば、情報テクノロジー革命によって引き起こされる雇用大量喪失などの上記課題は非現実的だというピンカーの意見に賛同。
膨大な(無限大といっても良い)アナログで動くこの世界を全てセンサーでデジタル化させるためには膨大な投資が必要ですし、そもそもデジタル化したものをプログラムで自動化するにも無限大のプログラマーが必要ですし、かつ全てをネットワーク化する必要がありますが、これらも人間のメンテナンスが必要で、全自動化などちょっと考えられません。
そして自動化するためのロボティクスも革命的に進歩する必要がありますが、複雑な作業は当分人間の方が費用対効果は高いように感じます。人間の手などの身体は我々が想像する以上に複雑、そして人間の脳も。
ホモ・デウスでいうテクノロジー革命によるアルゴリズムが支配する未来社会に関しては、そもそも民主主義社会であれば、個人情報を24時間モニタリングさせること自体、我々市民が拒否するでしょう。したがって個人個人に合わせたアルゴリズムは技術的に可能になったとしても「使う意志」が市民になければ実現しません。全ては我々の意志次第であって、それが人間の理性(中国や北朝鮮では可能かもしれませんが)。
そもそも彼自身も二つの革命は規制すべきと提言しており、こんな社会を「おぞましい」と皆が思えば、皆で規制すればよいだけです。それがピンカーのいう啓蒙主義。
自由意志については、虚構・物語によって形成されたものだから「虚構から始まる前提から思考を始めるのではなく、自分の情動などの意識から思考を始めましょう」というのは現象学の本質観取みたいで、目指しているところはとても似ているように感じました。
そして自由主義の物語では、創造主は「宗教や権威」ではなく「自分自身」。
「私たちは宇宙についての既成の物語(宗教や権威)に自分自身を当てはめ、それによって意味を見つけることを期待しているが、自由主義に基づいて世界を解釈すると、真実はその正反対になる。宇宙は私に意味など与えてくれない。私が宇宙に意味を与えるのだ(「20:意味 人生は物語ではない」より)
概ね同感です。ただし宗教や権威などへの否定的な態度は、あまり賛同できません。近代市民社会の原理を許容している範囲で、宗教や権威(右翼などの政治信条含め)を信じるのは全く問題ないし、信じることで当人が幸せになれるのなら決して否定はしません。それで心の平安を感じるのなら私は逆にポジティヴです。
フランシスコ教皇も近代市民社会の原理の範囲内での信仰を推奨しています。
とはいえ私は、ハラリ同様、宗教や権威を信じるよりも自分の感受性に耳を傾けつつ人生の意味を問う方に親近感を覚えます。
「私の人生の目的とは何か。感じ、考え、欲し、発明し、それによって意味を生み出すことだ。感じ、考え、欲し、発明しする人間の自由を制限するものは何であれ、宇宙の意味を制限する。したがって、そうした制限からの自由こそが至上の理想となる(同上)。
さすがハラリは、素朴実在論に陥りやすい他の知識人とは格が違うな、という印象です。そんな最終章「21:瞑想ーひたすら観察せよ」のハラリの「心」に関するコメントは、とても素敵なので以下引用します。
◼️脳はニューロンとシナプスと生化学物質の物質的なネットワークであるのに対して、心は痛みや快感、怒り、愛といった主観的な経験の流れだ。脳が何らかの方法で痛みや愛のような経験を生み出すと生物学者は決めてかかっている。ところが、これまでのところ私たちは心がどのようにして脳から現れるのかは全く説明できずにいる。何十億というニューロンが特定のパターンで電気信号を発していると、私が痛みを感じ、別のパターンでニューロンが発火していると愛を感じるのは一体どういうわけか?私たちには見当もつかない。したがって、たとえ心が本当に脳から現れるのだとしても、少なくとも当面は、心の研究は脳の研究とは異なる仕事だ。
◼️2018年現在で、私が直接アクセスできる心は私自身のものしかない。もし他の感覚ある生き物が何を経験しているかを知りたければ、間接的な報告に基づいてそうするしかないが、そうした報告は当然ながら、多大な歪曲や制約を免れない。
◼️意識を研究する学者は、心の領域へ自ら出向くことはほとんどない。なぜなら私たちが直接観察できる心は自分の心だけであり、偏見や先入観なしにサモア諸島の文化を観察できる心を直接観察するのがどれほど難しくても、自分の心を客観的に観察するのは、それに輪をかけて難しいからだ。
そして「瞑想」することにヒントがあるのではとし、彼自身毎日2時間瞑想し、毎年1ヶ月か2ヶ月長い瞑想修行に行くそうです。瞑想するにしても団結するにしても、スティーブン・ピンカーやジャレド・ダイアモンド同様、現段階でいえることは
「啓蒙主義」という虚構以外には、有用な「虚構」は、この人間世界には存在していない
ということなのです。
*写真:ギリシア サントリーニ島
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