音楽は詩を求めた
高田渡・生活の柄(1971年)、加川良・鎮静剤(1972年)、小椋佳・海辺の恋(1974年)は順に原詩が山之口貘(1924年)、堀口大學(1925年)、佐藤春夫(1921年)の作品。原詩はもともと歌詞として制作した訳はない(朗読はしたかもしれないが)。堀口の作品はマリ ロランサンのフランス語詩の翻訳だが、原詩がなくても、独立した日本語の詩作品として完成度が高い。
ロランサンの原詩はスペイン・バルセロナで発行の雑誌への初出が1917年。堀口の詩作は翻訳詩集・月下の一群の出版時で1925年。山之口は推定制作時期で1924年。佐藤は処女詩集・殉情詩集の出版時で1921年。ロランサンの原詩初出から堀口の訳詞集出版まで十年足らず、日本式には全て大正年間の作品で、後に歌詞として採用する日本のフォークソングの制作時期とは半世紀ほどの時代差がある。
半世紀も前のテキストを選んだのは何故だったか。因みにロランサンは1883年、佐藤と堀口は共に1892年、山之口は1903年の生まれ、日本式なら明治十年代、二十年代、三十年代。作品はいずれも大正時代に完成した。
1921 海辺の恋 1974
原詩制作時期の大正期には日本の詩作は既にモダニズムの時代に入っていた。にも拘らず佐藤春夫は文語体定型詩(七五調)で、近代生活を表現した。この詩篇を含む処女詩集から詩文集 我が一九二二年に掛けては小田原事件の時期で、海辺の恋、秋刀魚の歌ともに谷崎潤一郎夫妻との複雑な人間関係から生まれた作品(最終的にほぼ十年後の細君譲渡事件に至る経緯はネットや関連書籍ほか各所に解説が豊富)。秋刀魚の歌も併せて詩行を辿れば、文語体定型詩の表現能力を超える近代的実生活の問いを、時代を超えて変わらない情緒を通して解き明かそうとする佐藤の新しい雅文探求が見えて来る。文語表現の的確さに正比例して、描かれている生活感情の近代性が明瞭になる。
1974年の音源制作で小椋佳は原詩をそのまま使った。佐藤の文語体に手を加えられる言葉の技術は戦後二十年が過ぎた当時、尋常では持ち合わせる者がいなかった筈。漫画が原作のテレビドラマの主題歌として付曲した(旋律は小椋のオリジナル)。
1917/1925 鎮静剤 1972
堀口大學の翻訳詩集 月下の一群には「佐藤春夫におくる」と献辞があり、佐藤も謝辞の短文を別所に発表した。翻訳詞華集は象徴派からモダニスムへ移行するフランス詩の動きを詩人と表現技術の最新事情から紹介するのが目的だった筈だが、堀口が余りに詩人で目的を超えてしまい、オリジナル日本語詩集の境域に達した。「画家 マリィ・ロオランサン」と堀口が傍題で紹介した原作者、詩作経緯、訳者との関係等の周辺事情については関連資料が多い。比較級の構文と女性形形容詞(名詞化)だけで構成する原詩の構造を堀口はそのまま日本語に置き換え、モダニス厶の表現を原作と同じく追求した。その詩響はJコクトを紹介した「私の耳は貝の殻/海の響をなつかしむ」と同様、既に詩の境域に到達している。
加川良は1972年、LP第2音盤の録音版で堀口の原詩をそのまま使った。一部のクレジットにある「作詞:加川良」は誤記か勘違い。付曲が加川。ピアノだけの編曲と共に傑作。(高田渡が1972年、LP第2音盤の録音で付曲した版の方が或いは有名かもしれない。もちろんクレジットとは違って高田の作曲ではない。これもカーター家等の口承民俗歌がオリジナルと推定する)
1924 生活の柄 1971
夜空と陸との隙間にもぐり込んで、陸を敷いてはねむれない。空(宇宙)と大地(地球)が私(自我)と共に一挙に現象する広大無辺の世界感覚を表明した稀有の日本語。こんな言語感覚は少なくとも旧来の詩には無かった。以降もあったか、判らない。広大な地球、無辺の宇宙を歌った詩は時折あった。そして、そこには常に広大無辺を凝視ながら寄り添う自我がいた。しかし、この作品で山之口は地球、宇宙と戯れている。共存ではない。一体の一部になっている。山之口自身が広大無辺なのだ。古代中国に伝わる胡蝶夢の存在論を感じる。歴史軸ではモダニスムの次、近代を超克した実存の解明がある。
高田渡は1971年、LP第2音盤の録音版でカーター家の旋律に合わせ山之口の原詩を整形、歌詩に仕上げた。高田も言葉の技術が確かな詩人だった(カーター家が1931年に録音したSP音盤のクレジットは作詞・作曲APカーター。しかし、カーター家の音源は大凡、口承民俗歌なので、これすら妥当とは到底思えない)
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