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MP79_すべてのことに感想を持つこと

「すべてのことについて感想を持つこと」

今読んでいる本で印象的な言葉。

そう思って、日常を振り返った時に、まあ出てこないんです、感想が。

なぜ出てこないのか?

立ち位置を決めていない

自分の意見を持つことをしていないのかもしれない。
何か起きた時にどちらの立場にも立たないイメージ。

多分意見はあるのだけれど、「私はこう思う。なぜなら○○だから。」というように意見を伝えたり、相手の意見を聞いたりすることが最近ほとんどない。

伝える場面が少ないから、「どっちでもいい」と思っていること、自分の立ち位置を明確にすることがほとんどない。

これについてどう思うか?と聞かれた時に、相手の背景や聞いてきた意図を気にして、それにそうことや傷つけない言葉選びとか、そんなことを考えていたら自分の意見を忘れている。

興味関心が湧くものに触れていない

とても悪い傾向なのだが、「あ、これ知っている・・・」とかすぐ思って分かったふりして(わかることは安心につながるから、そう断定しているだけで本当はわかっていないと思う・・・)、「ドキドキする!!」とか、心を動かすものに触れられていない。(触れているけどドキドキを感じなくなっている?!)

おもしろい映画や、ドキュメンタリーを見るとおもしろいとは思うんです。
でも、感想が「面白かった」以上出てこない。

何がおもしろいのか?
何に感動したのか?

感じたはずの思いが詰まった引き出しがしまっている。
言葉にしないから、形がぼんやりしていて自分でもわからないままになっている。

「おもしろいな」という刺激には触れているのだけれども、その奥のさらなる私のアンテナに触れるように味わっていない。

また、いろんな情報に倍速で触れている。倍速せずに見るものはほとんどない。本も気づいたら斜め読み。無意識の領域。見たり聞いたり読んだりしているその行為だけで満足しているのかも。

子どもの感想と同じだけど、心の動きが違う

子どもに「今日何が面白かった?」と聞いたら、「お友達と遊んだことが面白かった!」という。
何で?と聞いたら、「わからない」という。

表情を見ていると、面白かったし楽しんでいるのだと思う。
ただ、その感情を表現する言葉を見つけられていないだけだから、何かの形で表現したり、思いを言い換えたり、そんなことを母親としてしたいなと思いながらも、私自身がそんな表現が出ないようになっている気がする。

子どもは心が動いていると思う。
私は、どうなんだろうか。

感想を持てない私は、子どもとの関わりの中でもちょっとまずい状態になっているかもしれない。書いていて気づいた。

あまり刺激に過敏になると疲れるから

子どもたちと過ごしていると、いろんなことに自然と気を張る。ちょっとしたことが命の危険につながるから。

気を張らなくていい時は、感覚をオフにして、休ませている気がする。

人間は使えるエネルギーの量ってある程度決まっていると思う。
バッテリーを節約するモードがはいり、感想を持つことにエネルギーを割くことについて、優先度持っていなかったからかもしれない。


日々の中で、感じることを深めて行きたいけど、全部に対して感想を持つことはまだ私にとって難しい。

ある事象において、自然に感想を持てるようになっていき、徐々に範囲が広がって、新たな気づきを得られるようになっていけたらと思う。

そんなことを「感想」として持った今日この頃。


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