見出し画像

デヴィッド・ボウイが見た「壁」|私に魔法をかけた曲

1974年後半をかけて行われた、アメリカ全土にわたるツアー(大掛かりなセットを持ち回り、中断を挟んでの50公演)によって、デヴィッド・ボウイは疲弊の頂点にいました。
彼を追い込んでいたものには、ツアーへのプレッシャーとともにマネジャーや代理人との経済的闘争、連日のアルコールやコカインの摂取も含まれました。
当時彼の体重は50kg程度だったという証言もあります。

ひとりのモッズだった若者が「ジギー・スターダスト」という仮面を着け頂点に駆け登り、いつしか自ら創り上げたその人格の肥大・独走に苦しんでいました。
仮面からの脱却のため、新たな仮面を探すしかないと考えたのでしょうか。
「アラジン・セイン」も「シン・ホワイト・デューク」も、彼の必死のアイデンティティ探索の結果とも思えます。

ハリウッドに居を構え、ニーチェとオカルティズムに没頭した彼は、翌1975年には初の主演映画を撮り、「ステイション・トゥ・ステイション」を発表します。

このアルバムのタイトル曲で疾走する機関車は、明らかにそのころボウイが聴き続けていたクラウト・ロックのビートを燃料としています。
彼がクラフトワークやノイ!から新しいエネルギーを受け取ったのは間違いなさそうです。

というか、それ以上に彼はこれらの単調なビート、反復するテーマ、エレクトロニクスにのめり込んでいたようです。
クラフトワークのフロリアン・シュナイダーに「『ステイション・トゥ・ステイション』ツアーに参加してほしいんだけど」と誘い、丁重に断られたとか。

1976年、英ウェンブリーでのライヴ後、ボウイはブライアン・イーノの訪問を受けます。
すでに親しい間柄だったイーノは「ステイション・トゥ・ステイション」を聴いて、「ボウイも自分と同じ方向へ行きたいと考えているんじゃないか」と感じたそうです。
ロサンジェルスの路上で行き倒れのようになっていたイギー・ポップを拾い上げて、ボウイはアメリカを後にします。

彼らはまずフランスで、のちに「ロウ」とタイトルされる曲群を作り始めます。
「僕とイーノでなにか新しいものを創りたいと思っているけど、結局無駄なスタジオ・ワークになるかもしれない」と声をかけられたトニー・ヴィスコンティはこう答えたといいます。
「デヴィッド・ボウイとブライアン・イーノと一緒に無駄にする時間なら、喜んでつき合うよ」

パリ北西にあるエルヴィルのシャトーで始まったスタジオ・ワークは様々なトラブルと成果を生んで、ベルリンへ移ります。
完成したアルバムは、尖りまくったビートや陰鬱なインストゥルメンタルでもって従来のファンをふるい落とすかと思われましたが、ポップ・ミュージック・シーンの予想に反して大きなヒットとなります。

1977年4月、「ロウ」のプロモーションのため来日したボウイは、旧知の写真家・鋤田正義とのフォト・セッションを行い、その1枚が次作「ヒーローズ」のカヴァーを飾ることになります。

7月、ベルリンに戻ったボウイたちは前作のコンセプトを継承して、時間を置かずハンザ・スタジオに入ります。

©Das Hansa Tonstudio


この時、別スタジオでレコーディングをしていた「メッセンジャーズ」という地元のバンドでヴォーカルを取っていた女性がアントニア・マースでした。
彼女はほどなくして、ボウイのプロジェクトでバッキング・ヴォーカルの仕事を得ます。

そしてあの有名な伝説の登場人物にもなります。
曰く、
「歌詞のイメージを探っていたボウイがスタジオの窓から外の風景を眺めているとき、すぐそこにあるベルリンの壁の前で抱き合う男女を見た。
トニー・ヴィスコンティとアントニア・マースだった。
強大な壁と人目を忍んで逢う恋人たちの対比は、ロマンティックな曲となった」

しかしマース本人によって、この説は強く否定されています。
この曲がレコーディングされた時点で、自分とヴィスコンティは深い仲になってはいなかった、そもそも当時妻帯者のヴィスコンティと昼間の壁の前で抱き合うなんてするはずがない、と。

まあ、それはどっちでもいいです。
この素晴らしい曲がベルリンの壁の前で生まれたという事実だけで。

私がこの曲を初めて聴いたのは15年ほど前だったと思います。
1978年のアメリカ・ツアーでの演奏を収めたライヴ・アルバム「ステージ」の収録曲として。
このヴァージョンで、私は曲に引きずり込まれました。
最初のドラム・ブレイクの一音から、最後にボウイの声が宙に消えるまで、私にとっては全てが完璧な一曲です。
以来、「ヒーローズ」とはこのライヴ・ヴァージョンであると後頭部から背骨にかけて貼りついてしまいました。
そのせいか、のちにオリジナル・アルバム・ヴァージョンを聴いても、どうもしっくりきません。

ライヴゆえのダイナミズムもあるでしょう。
デニス・デイヴィスのシンバル・ワークなど、やり過ぎかもしれません。
サスティンの効いたエイドリアン・ブリューのギターはとにかく印象的です。
(オリジナルのフリップ師匠も好きですよ!)
そして後半に爆発するボウイのエモーショナルな歌。
個人的には、この時のボウイが一番歌が上手かったんじゃないかと思っています。

ボウイはこの一連の仕事を通して別の仮面を得たのでしょうか。
彼のパーソナル・アシスタントを長年勤めたココ・シュワブは、「ベルリンでのデヴィッドはとてもシンプルに暮らしていた。どこへでも自転車に乗って行ったし、彼を知るひとのいない街は彼を解放したはず」と言います。

1987年6月、ボウイは西ベルリンの「壁」の前でコンサートを行います。
ステージ周りのスピーカーの1/4が東ベルリン側に向けられたといいます。
この曲が始まると、「壁」の向こう側ではおよそ5,000人が曲に合わせて歌いました。
2年5ヶ月後、「壁」は東西市民によって壊されはじめます。
2016年に彼が亡くなったとき、ドイツ外務省はこんなメッセージを送りました。
「さようならデヴィッド・ボウイ。あなたもヒーローたちの仲間入りです。壁を壊すのに力を貸してくれてありがとう」

その翌年、ボウイを愛するバンド、デペッシュ・モードはスイス・チューリヒのスタディアムでのライヴでこの曲を大観衆とともに歌いました。
曲の前にヴォーカルのデイヴ・ガーンが呼びかけました。
「僕たちはこの歌から始まった。世界もこの歌から始まった。また新しく始めるためにいっしょに歌ってくれ。今日、ヒーローになるために」

今日1月10日で、私たちがデヴィッド・ボウイを失ってから9年目に入ります。


(文中敬称略)
top image : wal_172619, Thank you for letting me borrow your wonderful works.

いいなと思ったら応援しよう!