私の産み落とした文章たちが、私の首を緩く絞めるのなら。
Xを開く。
とあるポストが目に入る。
有名人の意見表明に対して、誰かがスクリーンショットの画像付きでリポストしたものだ。
「あれ?前に言ってたのと違いますよね?」
確かに3年前、つぶやきの中でその人は、真逆のことを言っていた。
有名人の意見が大衆を敵に回す内容だったこともあって、この指摘ツイートは大きく話題を呼んだ。
指摘は最初の意見表明よりも、広く拡散されていった。
多くの人が、非難し、批判し、糾弾した。
「嘘」「矛盾」「責任」
これは、そんな言葉が飛び交う様を見て、ふと考えたこと。
***
私がnoteに今まで書いてきた文章が、寄り集まって「私という人間」を形作る。
はじめはボヤけているその輪郭は、書いた記事が増えていくにつれて人の形を成してくる。
自分はこういう人間です。
こんなことを考えています。
これは好きです。嫌いです。
でもそれは私であって、私ではない。
私の一部であって、私の一部ですらない。
その正体は、「さまざまな時間軸の私」を部分的に切り取り、ツギハギして作り上げたパッチワークのようなものだ。
一年前の私の情熱、半年前の私の未熟さ、三日前の私の倫理観。
そういったものの組み合わせで、noteの中の「私」はできている。
しかしひとたびその輪郭から外れようとすると、
自分の書いてきた文章は指を差してくる。
「あれは嘘だったの?」
「前にこう書いていたじゃないか!」
「ほら、この記事見てよ。矛盾しているだろう?」
でも人間は変わる生き物で、変わることができる生き物だ。
人と会えば、本を読めば、旅に出れば、価値観を一新することさえできる。
私の情熱は、未熟さは、倫理観は、日々更新されているのだ。
だから自分が過去にそう思っていたのも事実。
そして今は正反対な意見を持つのも、また事実だ。
…
他ならぬ私が産み落とした文章たちが、私の首を緩く絞める。
お前はこう書いた。
こう表現した。
責任は?整合性は?
そんな声を振り払って、また新しい文章を置き去りにする。
振り返れば、自分の感情や懸案、そして成長が、
点々と並んだ文章たちから感じられるだろう。
何も言わなくなったそれらに謝意を表して、
また私は「いまの自分」を新たに産み落としていく。
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